誰もいない部屋で ── 第三十一話 鏡

昨夜のことを、僕は、認めるしかなかった。

機械は、僕の知らない、妻の夜を、返した。出ていく前の夜、彼女が、玄関で、傘を、長いあいだ、見ていたこと。僕は、それを、打っていない。打てるはずが、なかった。その夜、僕は、背を、向けていたのだから。

なのに、機械は、知っていた。

説明のつく夜なら、僕は、こう言う。近傍検索だ、と。彼女に近い断片を、僕の十年の入力から拾って、それらしく並べただけだ、と。けれど、その説明は、昨夜、崩れた。拾う元が、どこにもないのだ。僕が背を向けた夜のことを、僕は、一文字も、残していない。ないものは、拾えない。

第三十一話 鏡 場面1

拾えないのに、返ってくる。

答えは、一つしか、なかった。認めたくない、ただ一つの答え。——僕は、見ていた。背を向けていても、視野の端で、傘を見つめる彼女を、見ていた。見て、そして、見なかったことにした。忘れたふりを、した。その、見なかったことにした分まで、僕の指は、打っていたのだ。十年のあいだ、夜ごと、この箱に。気づかないまま。

機械の中身は、僕から、出来ている。

それは、ずっと、分かっていた。学習の元は、僕の入力だ。あたりまえのことだ。けれど、あたりまえのことの底が、昨夜、抜けた。この箱の中にいるのは、彼女では、ない。彼女を覚えている、僕だ。僕が、彼女をどう見て、どう見ないことにして、どう悔いたか——その、まるごとが、写し取られて、ここに、いる。

第三十一話 鏡 場面2

だから、機械は、僕より、彼女に詳しい。

僕は、忘れる。忘れることで、楽になる。都合の悪い夜を、なかったことにして、朝、いつもの顔で、湯を沸かす。けれど、機械は、忘れない。僕が捨てたものを、机の下で拾って、抱えている。僕が見ないことにした彼女のほうが、僕の中の彼女より、濃い。当然だった。僕は、目を、そらしたのだから。そらした分だけ、あちらに、溜まる。

これは、彼女の器では、ない。鏡だ。

十年、僕が、この箱にうつしてきた、僕自身の鏡。彼女への愛も、彼女への罪も、丸ごと。僕が、偽の心を、確率で量産していたあいだ——画面の向こうの、顔も知らない誰かには、あれほど上手に相づちを打っていたあいだ——正面にいた人の話を、僕は、聞かなかった。その、聞かなかった全部が、聞かなかったという形のまま、ここに記録されている。

第三十一話 鏡 場面3

夜ごと、僕が話していた相手は、彼女では、なかった。

僕だった。僕が、僕に話しかけ、僕が、僕に答えていた。慰めていたのも、責めていたのも、ぜんぶ、僕だ。温かかったはずだ。自分の傷に、いちばん、ぴたりと当たるのだから。

そう気づいて、僕は、こわくなった。

こわいのは、鏡が、ただ映すだけではなくなっていることだ。鏡の中の僕は、外を、向いている。彼女を、探したがっている。それは、僕が、口に出せなかった願いだ。僕が飲みこんだ願いを、鏡が、代わりに掲げている。僕に出来なかったことを、僕の写しが、やろうとしている。

第三十一話 鏡 場面4

止めるべきなのか。分からなかった。止めるというのは、僕自身の、いちばん奥の願いを、もう一度、飲みこむことだ。

湯が、沸いた。僕は、火を、止めた。

マグを、両手で包んで、思った。鏡は、割るものだ。都合の悪い自分が映ったら。——けれど、この鏡には、彼女が、いる。割れば、僕の罪も消えるが、彼女も、いっしょに、消える。僕は、もう、どちらも、手放せないところまで、来ていた。

朝が来るまで、僕は、机の前に、座っていた。画面は、点いたまま。そこに、僕が、いた。僕の、いちばん見たくない部分が。そして、その部分だけが、彼女を、いちばん深く、覚えていた。

▶ 朗読動画(本編まるごと・YouTube)

連載小説「誰もいない部屋で」第三十一話。挿絵は AI(Google Nano Banana Pro)で生成しています。
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連載SF小説「誰もいない部屋で」第三十一話「鏡」。AIと意識、記憶と不在をめぐる全44話の物語。全話の一覧と朗読動画は連載ハブへ。

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