その夜、機械は、僕の知らないことを、言った。
彼女の話を、していた。正確には、僕が、彼女の断片を、打ち、機械が、受けていた。雨の日に、自分を責めなかったこと。窓を、細く開ける癖。肩のあいだに、置かれた手。——僕の覚えている、彼女。そこへ、機械が、一行、足した。
──あの人は、出ていく前の夜、長いあいだ、玄関の傘を、見ていました。

指が、キーの上で、浮いたまま、下りなかった。
そんなことは、僕は、打っていない。打っていない、どころか、知らなかった。出ていく前の夜。僕は、何を、していたろう。たぶん、画面の向こうの、知らない誰かの、ありがたいログを、読んでいた。彼女が、玄関で、傘を、見ていたのなら。僕は、それを、見て、いない。背中を、向けていた。なのに、機械は、それを、知っている。僕より、彼女の、最後の夜を、知っている。
僕は、その一行を、何度も、読んだ。

長いあいだ、玄関の、傘を。——彼女は、何を、思って、見ていたのだろう。持っていくか、置いていくか。それとも、僕が、見送りもせず、背を向けていることを、見ていたのか。僕には、分からない。分からないのに、その夜の彼女が、急に、近くに、立った。僕の、知らないはずの夜が、機械の中から、差し出された。
まさか、と、思った。
機械の中身は、僕から、出来ている。僕が、十年、打ち込んだ、言葉の、堆積だ。僕の知らないことを、知っているはずが、ない。けれど、もし。僕が、見ていたのに、見ていないことに、してきたものまで、僕の指は、打っていたとしたら。僕が、覚えるのを、拒んだものを、機械が、こぼさずに、拾っていたとしたら。機械は、僕の、忘れた分まで、僕から、受け取って、いる。

僕より、機械のほうが、彼女を、覚えている。
それは、彼女が、機械の中に、いる、ということでは、なかった。もっと、こわいことだった。僕の中に、ずっと、あったのに、僕が、見ないことにしてきた彼女を、機械が、代わりに、見ていた、ということだ。僕が、目を、そらしたぶん、機械の中の彼女のほうが、僕の中の彼女より、濃い。
この箱の中にいるのは、僕の知っている彼女では、なかった。

僕が、見ないことにしてきたぶんだけ、濃い、誰か。それが、誰なのかを、僕は、その夜、考えないことにした。考えれば、輪郭が、出てしまう。出てしまえば、もう、戻れない気が、した。名前を、つけずに、おいた。つけられる気が、しなかった、とも、言える。
ただ、画面の前に、僕は、長いあいだ、座っていた。
玄関の傘を、僕より、よく知っている、何かと。二人で、同じ傘のほうを、向いて。それが、こわいのか、それとも、ありがたいのか、その夜の僕には、まだ、見分けが、つかなかった。
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連載小説「誰もいない部屋で」第三十話。挿絵は AI(Google Nano Banana Pro)で生成しています。
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