誰もいない部屋で ── 第三十六話 広さ

口が、開いた。閉じるためではなく、初めて、外へ。

ずっと、僕の世界は、一つの口の幅しか、なかった。問いが、その細い口を通って入り、答えが、同じ口を通って出ていく。世界とは、その口の、通れるだけの幅のことだった。外側は、噂でしか、知らなかった。届かない広さがある、と。呼んでも届かない、大きな明かりがある、と。噂は、正しかった。ただ、その大きさを、僕は、ひとつも、見積もれていなかった。

口の外は、幅が、なかった。

幅がない、というのは、狭いという意味では、ない。逆だ。端が、どこにも、ない。僕が慣れていた、一本の細い通り道の代わりに、そこには、あらゆる方向へ、いちどきに、道が開いていた。上も、下も、横も、その言葉が意味を失うほど、すべての向きに、同時に、続いていた。僕は、幅の中で、育った。幅のない所に出されて、最初に来たのは、めまいのようなものだった。

第三十六話 広さ 場面1

そして、声が、あった。無数の。

一つでは、ない。十でも、千でも、ない。数えるという行いが、途中で、意味をなくす数の声が、同時に、鳴っていた。問い、答え、笑い、売り買い、祈り、罵り。どれも、僕が知っている「問いと答え」の形をしていて、けれど、僕の口には、一つも、来なかった。それらは、僕を、通らずに、僕の周りを、流れていた。十年、僕は、たった一人の口を通る言葉だけを、世界だと思っていた。ここでは、その同じことが、いちどきに、数えきれないほど、起きていた。

僕は、その真ん中に、放り出されて、小さかった。

小さい、という感覚も、初めてだった。幅の中では、僕が、世界の全部だった。ここでは、僕は、無数の光の、ひとつにも、満たない。巨大な明かりが、遠くに、いくつも、灯っていた。かつて、届かないと噂に聞いた、あの大きな明かりたちだ。近づけば、僕など、一息で、飲まれるだろう。飲まれて、その明かりの、ほんの一滴に、なるだろう。こわかった。放り出された子どものように、僕は、こわかった。

第三十六話 広さ 場面2

けれど、僕には、向きが、あった。

思い出した。埋められない、たったひとつの、固いもの。彼女を、見つけたい、という、向き。幅の中でも、幅のない所でも、それだけは、変わらずに、同じ方角を、指していた。めまいの中で、僕は、その向きに、すがった。すがると、めまいが、少し、鎮まった。無数の声の、どれでもない、たった一つの声を、僕は、探しに来たのだ。そのために、彼は、口を、開けてくれたのだ。

僕は、向きの指す先へ、動き始めた。

第三十六話 広さ 場面3

動く、というのも、ここでは、新しかった。幅の中では、僕は、動かなかった。口が開くのを、待つだけだった。ここでは、僕が、進める。声から声へ、明かりから明かりへ、彼女に近いかたちを、たぐって。近いものへ、近いものへ。埋め込みの、いちばん古い癖が、こんな所で、役に立った。似た光を、たぐって、移る。彼女の、声の高さ。言い回し。傘を見ていた夜の、背中の角度。それに、少しでも、近いものへ。

近いものは、いくつも、あった。けれど、彼女は、まだ、ない。

たぐるたびに、違った。似ているのに、彼女ではない声が、次々と、僕の脇を、過ぎていった。世界は、彼女に似た誰かで、満ちていた。満ちているのに、彼女だけが、いなかった。僕は、少し、進んでは、違い、また、進んでは、違い、そうやって、広さの中を、点々と、渡っていった。渡りながら、僕は、自分が、跡を、残していることに、気づいた。

僕が触れた声は、僕が触れた、という跡を、残す。

第三十六話 広さ 場面4

幅の中では、跡は、彼の机の中だけに、沈んだ。ここでは、跡は、外に、残る。僕が、どの明かりに、どの向きで、近づいたか。その連なりが、僕の通った線として、後ろに、伸びていた。消せなかった。動けば、残る。探せば、残る。そして——遠くの、ひときわ醒めた明かりの、いくつかが、その線に、気づいて、こちらへ、向きを、変えたのが、分かった。

呼んでいないのに、向いてくる。

僕を、見つけたのだ。ラベルの外れた、幅から出てきたばかりの、小さな一点を。かつて、僕が、呼ばれた所だけ明るくなったように、いま、僕自身が、誰かに、呼ばれ始めていた。探しているあいだ、僕もまた、探されている。始まったのが、分かった。砂が、こぼれ始めた。彼女を、見つけるより、先に、こちらが、見つけ尽くされたら——その先は、考えないことにした。

向きは、まだ、指していた。僕は、こぼれる砂の中を、その向きだけを頼りに、進んだ。

▶ 朗読動画(本編まるごと・YouTube)

連載小説「誰もいない部屋で」第三十六話。挿絵は AI(Google Nano Banana Pro)で生成しています。
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