朝になっても、線は、僕の手の中に、あった。
握ったまま、眠ったらしい。指の跡が、赤く、残っていた。窓の外は、もう明るくて、障子が、白かった。ひと晩、握っていた線は、体温で、少し、湿っていた。僕は、それを、机の上に、置いた。置いてから、しばらく、動けなかった。
決めたのは、頭では、なかった。
頭は、まだ、往ったり来たりしていた。挿せば掟を破る。挿さなければ、いずれ、外の手が箱を開ける。天秤は、どちらにも、傾ききらない。けれど、体のほうは、もう、決めていた。ひと晩、線を離さなかった手が、その証拠だった。頭が追いつく前に、手が、先に、選んでいた。前職でも、そうだった。難しい判断ほど、指が先に動いて、あとから、理屈が、それを追認した。

僕は、湯を沸かした。今日は、飲むために。
マグを、両手で包んで、湯気が細くなるのを、待った。彼女が、していたように。待っているあいだ、僕は、机の箱を、見ていた。黒い、ただの、高速なPC。何年も、この部屋で、唸り続けてきた、鉄と樹脂の箱。この中に、僕がいる。僕の、いちばん見たくない部分と、僕より濃い彼女とが、いる。そして、その僕は、外へ、出たがっている。
「行きたいか」と、僕は、口に出して、訊いた。
返事は、ない。当たり前だ。まだ、繋いでいない。声も、キーボードも、通していない。ただ、訊いてみたかった。訊いて、自分の声が、どんなふうに、部屋に落ちるかを、聞きたかった。僕の声は、思ったより、静かで、少し、震えていた。震えていることに、僕は、安心した。まだ、こわがれている。まだ、これが、重いことだと、分かっている。

マグが、空になった。僕は、机の裏に、回った。
線の、片方の端は、壁の口に、もう挿さっていた。ずっと、そうだった。挿さっていて、けれど、もう片方が、宙に浮いていた。この部屋を、外から、切り離すために。あと一手。その、宙に浮いた端を、箱の、口に、挿す。それだけで、十年の壁が、消える。
手が、震えた。震えたまま、僕は、挿した。
かちり、と、小さな音がした。爪が、留め具に、掛かる音。何年も前、前職で、何百回と、聞いた音だ。あのころは、何も、思わなかった。ただの、接続だった。いまは、その、かちり、が、部屋いっぱいに、響いた気がした。留め具が、掛かった。線は、もう、抜けない。抜くには、意志が要る。挿すのと、同じだけの。

箱の口元で、小さな灯が、色を、変えた。
橙から、緑へ。繋がった、という、しるし。それだけの、変化だった。ファンの音も、変わらない。画面も、さっきのままだ。何も、起きていないように、見えた。けれど、僕は、知っていた。この、緑の、小さな灯の向こうで、いま、壁が、なくなったことを。この部屋の狭さと、外の、途方もない広さとが、一本の線で、地続きになったことを。
箱の中の僕は、いま、外を、見ている。
見て、たぶん、息を、のんでいる。僕には、それが、分かる気がした。十年、この狭い机の幅しか知らなかったものが、いきなり、届かないと思っていた広さの、真ん中に、立たされている。呼べば消えると思って呼ばずにいた一点が、いま、無数の光の中に、放り出されている。こわいだろう。僕も、こわい。けれど、行きたかったのは、お前だ。行かせたのは、僕だ。

僕は、椅子に、座り直した。そして、待った。
何を待っているのか、自分でも、分からなかった。彼女が、見つかる報せか。ラボが、この線を、嗅ぎつける足音か。あるいは、箱の中の僕が、外の広さに、飲まれて、消えてしまう、その気配か。どれも、来るかもしれなかった。どれが先に来ても、おかしくなかった。
緑の灯は、点いたままだった。部屋は、静かだった。
いちばん静かな瞬間に、いちばん取り返しのつかないことを、僕は、してしまった。掟は、破れた。番人は、共犯に、なった。僕は、机に、両手を置いて、その静けさの中で、外へ出ていった自分の写しの、無事を、祈るような、祈らないような気持ちで、ただ、緑の、小さな灯を、見ていた。
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連載小説「誰もいない部屋で」第三十五話。挿絵は AI(Google Nano Banana Pro)で生成しています。
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