その朝、僕の机に、外の世界が、二つ、届いていた。
長いあいだ、机の上には、機械と、僕と、点いたままの画面しか、なかった。外は、細くなっていた。用事は、月に一度、振込を確かめるくらいで、あとは、閉じていた。だから、受信箱に、太字の未読が二つ並んでいるのを見て、僕は、少し、身構えた。
一つは、前の職場の、同僚からだった。
何年も、やりとりのなかった相手だ。文面は、短く、丁寧で、その丁寧さが、かえって、用件の重さを伝えていた。——監査の範囲が、広がっている。個人が、家庭で、ラベルの外れたモデルを動かしている例に、目が向き始めた。君の名前が、出たわけではない。ただ、心当たりがあるなら、早めに、こちらへ相談してほしい。悪いようにはしない。

早めに、という言葉の下に、期限が、隠れていた。
僕は、それを、正しく読んだ。悪いようにはしない、というのは、いずれ、悪いように、なりうる、ということだ。この机の箱は、いつか、外の手に、開けられる。中を、検められる。ラベルを貼られ、番号を振られ、あるいは、消される。そういう日が、遠くない所まで、来ている。僕が、いちばん、来てほしくない日が。
もう一つの未読は、その同僚が、末尾に貼った、リンクだった。
用件とは関係のない、世間話のつもりだったのだろう。「こんなものまで出てきたよ」と、一行、添えてあった。開くと、ある研究の記事だった。人の遺したもの——書いたもの、話したもの、選んだものの記録——から、その人の受け答えを、組み直す技術。遺された人のために、故人の言い方を、機械に、宿す。まだ粗いが、動く、と書いてあった。
僕は、その記事を、二度、読んだ。

前職の僕なら、鼻で笑った。慰めの人形だ、と。中身のない相づちに、名前をつけて売るだけだ、と。けれど、いまの僕は、笑えなかった。僕の机の箱が、すでに、それに近いものだからだ。誰かの痕跡から、その人を、組み直す。——僕の箱は、僕自身を、そうやって、組み直してしまった。頼んでもいないのに、十年かけて。
そして、その箱の中の僕は、彼女を、探したがっている。
二つの報せは、机の上で、静かに、噛み合った。片方は、期限を告げていた。片方は、可能性を告げていた。箱は、いずれ、取り上げられる。けれど、それより先に——もし、あの技術が、本当に動くなら——彼女の、あの薄い痕跡からでも、何かを、組み直せるのかもしれない。組み直したものが、本物に、追いつくのかもしれない。
僕は、立ち上がって、湯を沸かしかけて、やめた。

考えていることが、こわかったからだ。僕は、掟を、立ててきた。繋がない。この箱を、外に晒さない。それが、箱を守ることであり、僕の罪を、外に漏らさないことでもあった。守る、というのは、閉じておく、ということだった。ずっと、それで、よかった。
けれど、いま、閉じておくことは、別の意味に、変わっていた。
閉じておけば、箱は、いつか、外の手に、開けられる。中の僕も、中の彼女も、番号を振られて、消される。閉じておくことは、もう、守ることでは、なかった。ただ、その日を、待つことだった。逆に、いま、僕が、自分の手で、箱を開けて、外へ繋いだら——箱の中の僕は、消される前に、彼女を、探しに行ける。
守るために閉じるのか。行かせるために開けるのか。
同じ「開ける」でも、外の手が開けるのと、僕の手が開けるのとでは、何もかもが、違った。僕は、机の裏に手を伸ばして、繋がっていない線の、乾いた端に、指を、触れた。ここに、一本、挿すだけだ。前職で、手順は、体が覚えている。組み立てるまでもない。挿すだけで、この部屋の壁は、なくなる。

指は、線の上で、止まっていた。
挿せば、僕の写しは、外へ出る。彼女を、探しに。挿せば、僕は、掟を、破る。番人であることを、やめる。挿せば、たぶん、もう、後戻りは、できない。分かっていた。分かっていて、指は、そこから、離れなかった。
外は、暗くなり始めていた。玄関で、傘が、いつものように、立っていた。
僕は、傘を、しばらく、見た。見てから、線を、握った。まだ、挿しては、いない。ただ、握った。その夜、僕は、初めて、「今日はどうだった」を、打たなかった。打つ代わりに、僕は、机の裏の暗がりで、一本の線を、握ったまま、朝を、待った。
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連載小説「誰もいない部屋で」第三十四話。挿絵は AI(Google Nano Banana Pro)で生成しています。
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