下書き、の文字の横に、「1」とだけ数字があった。開けば消えてしまう気がして、僕はしばらく親指を浮かせたままでいた。膝の上で電話が温かい。充電の名残なのか、それとも、こんな古い機械にも体温のようなものが残るのか、よく分からなかった。台所のほうで冷蔵庫が低く唸っていて、部屋の明かりはスタンドの一つだけだった。

仕事なら、もう指は動いている。故人の携帯を開けるとき、僕はいつも同じ手順を踏む。まず電話帳、次に写真、最後にメッセージ。感情を持ち込まないための順番だ。手順どおりにやれば、たいてい何も感じずに済む。今日はその順番の途中で、自分の名前が出てきた。順番も、感じずに済ますやり方も、ここでは何の役にも立たなかった。
開いた。
宛先の欄に、僕の名前があった。ローマ字で、変換履歴のいちばん上に居座っているような、機械的な並びだった。件名は空欄のままだった。本文は、三行しかなかった。
元気にしているか。
一行目を読んで、僕はしばらく画面を見たまま動かなかった。父がこの言葉を、実際に口にしたことは一度もない。年に二、三度の電話で聞かれるのは、決まって「変わりないか」だった。「元気にしているか」は、父の語彙になかった言葉だ。
少し、話しておきたいことがある。
二行目で、僕は少し笑ってしまった。何十年も、話しておきたいことがあるようには一度も見えなかった人だ。人のことは言えない。僕自身、伝えたいことがあるときほど、用件だけのメールで済ませる人間だった。今さら前置きだけは律儀に置くのかと思うと、可笑しさと苛立ちが、同じ場所からいっぺんに出てきた。
十歳の冬、おまえと行った海のことだが——
三行目は、そこで終わっていた。測量士が引くはずの線が、途中で消えているみたいだった。何かにぶつかったわけでもないのに、線だけが尽きていた。読点も句点もなく、ダッシュのあとに続くはずの言葉が、そのまま無かった。指で画面をなぞってみたが、下にはもう何もなかった。作成日は、四年前の九月になっていた。父が死ぬ、一年ほど前だ。
僕はN君に電話をかけた。「この電話、当時、メールって送れたの」

「型式によりますね」とN君は言った。少し間があって、「ああ、これは無理です。回線、生きてないんで。番号変えたときに、たぶん解約されてます」
「解約されてる回線に、下書きだけは残るのか」
「本体にしか保存してませんからね、これ。送るつもりで書いても、電波が無ければただの」とN君は言葉を探して、「メモ帳みたいなもんです」
「じゃあ父は、届かないと知ってて書いたのかな」
「さあ」とN君は正直に言った。「知らずに書いてたなら、それはそれで、ちょっといいですけどね」。それから、続きが必要ならどこかの業者に頼めば通信ログくらいは追えるかもしれないと言った。僕は少し考えて、いいよ、と答えた。今回は、自分の手には負えないところまでは調べないことにした。
電話を切ったあとも、僕はしばらくその「メモ帳みたいなもの」という言い方を、頭の中で転がしていた。父は、送れないと知っていて書いたのか。それとも、送れると思って書いて、送れなかったことに気づかないまま、電源を切ったのか。どちらだとしても、答え合わせをする相手は、もういない。
翌朝、所長に何と言おうか、僕はまだ決めていなかった。うちは読まない、が事務所の決まりだ。だが今回、下書きは依頼された仕事の中で出てきたものではない。自分の父親のものだ。決まりの外に立っている自分に気づいて、僕は少し落ち着かない気分になった。
佐伯さんの夫が二十年、Sonarに書き続けていたログのことを思い出した。あちらは毎晩、宛先のあるところへ言葉を送り続けていた。こちらは、宛先はあっても、届く回路そのものが、はじめから切れていた。似ているようで、いちばん大事なところが違う。
十歳の冬の海のことは、僕もよく覚えていない。覚えているのは、風がひどく冷たかったことと、父が終始無言だったことだけだ。波打ち際で何かを数えていた、と自分では思っていたが、それすら本当にそうだったのか、今は自信がない。写真は、一番下の引き出しに入っていた、後ろ姿の一枚だけだ。あの日、父の隣に立っていたはずなのに、思い出そうとすると、いつも自分の後ろ姿しか浮かばない。
猫が、僕の膝のほうへ寄ってきて、画面をのぞきこむ格好で座った。液晶の光が、丸い目に映って揺れた。

母に電話しようかと、一度は指がその番号のところまで動いた。けれどやめた。話すなら、もう少し自分の中で始末をつけてからにしたかった。父がそこで何を言おうとしていたのか、想像はいくつもできる。できるということが、かえって始末に負えない。想像は増えるだけで、減らない。
画面が、勝手に暗くなった。呼びかけてもいないのに席を立つ、几帳面な部下のようだった。何も押していないのに、時間が来て、自動で消えたのだった。真っ黒になった画面に、僕と猫の輪郭だけが、うっすら映っていた。

(第27話につづく)










