封筒を開けたのは、「錨」のカウンターだった。
家まで持たなかった。事務所にも戻れなかった。写真店を出て、商店街を三十歩ほど歩いたところで、僕は向きを変えて坂のほうへ歩いていた。
「今日は、コーヒー?」
「あとで」と僕は言った。ミドリさんは何も言わずに水を置いて、カウンターの向こうの端で豆を量りはじめた。この人は、こちらが何かを広げようとしているとき、店の反対側へ行く。
封筒は二つに分かれていた。一本ぶんずつ、薄い紙の袋に入っている。

先に開けたほうは、普通の写真だった。
家の前の道。庭の物干し。母が笑っている一枚。祖母らしい人が縁側にいる一枚。日付は入っていないが、母の髪の長さと服から、僕が小学校に上がる前後だと分かる。
三枚目で、気づいた。
僕が写っている。ただし、後ろ姿だった。四枚目も、七枚目も、十二枚目も。団地の階段を上っていく僕。自転車にまたがって、こちらを見ずに漕ぎ出そうとしている僕。駅の改札を抜けていく僕。砂浜で、しゃがんで何かを掘っている僕。
顔が写っているものが、一枚もなかった。
三十六枚のうち、僕が写っているのは十一枚あった。十一枚とも、後ろ姿だった。数え直した。同じだった。

僕は袋を置いて、水を一口飲んだ。ミドリさんは豆を量っていた。
もう一本の袋を開けた。
こちらは、最初の数枚が海だった。冬の海だ。灰色の空と、灰色の水と、そのあいだの白い線。防波堤の上から撮ったのだろう、水平線がまっすぐ横に走っている。悪くない写真だと思った。父が景色を撮るのを、僕は見たことがない。
五枚目から、様子が変わった。
水平線の上に、子どもが立っていた。
毛糸の帽子をかぶった、紺色のコートの子どもだった。空の色を透かして立っている。足元がない。腰から下が、空と海のあいだに溶けている。
六枚目では、その子どもは波の上にしゃがんでいた。七枚目では、雲の中に背中があった。八枚目には、同じ背中が二つ、少しずれて重なっていた。
二重露光というのは、こういうふうになるのだった。
一度、海だけを三十六枚撮る。フィルムを巻き戻す。同じフィルムをもう一度入れて、今度は子どもを撮る。二回ぶんの光が、同じ一枚のなかで重なる。
わざとかどうかは、分からない。主人はわざとだろうと言った。父が同じフィルムを二度入れる理由があったかどうか、僕には見当がつかない。ただ、間違いにしては、二本目の撮り方がていねいすぎた。海の写真の水平線の高さと、子どもの背丈の位置が、どの一枚でもぶつかっていない。
写真のなかで、僕はずっと海のほうを向いていた。

九枚目まで来て、僕は手を止めた。残りは袋に戻した。一枚ずつ見ていくと、どこかで自分がこの子どもの側に立ってしまう。立ってしまうと、撮っているほうの人が見えなくなる。今日いるべきなのは、防波堤の上のほうだった。
「見ていい?」とミドリさんが言った。いつのまにか近くにいた。
一枚だけ渡した。雲の中に背中がある一枚だった。
ミドリさんはそれを長いこと見て、それから「きれいね」と言った。それだけ言って、カウンターの向こうへ戻った。感想を続けない人でよかった。続けられたら、僕はその日のうちに何か決めてしまっていた。

日曜日に実家へ行って、母に見せた。
母は老眼鏡をかけて、一枚ずつ、時間をかけて見た。海のほうを先に見て、それから普通のほうを見た。並べ替えたりはしなかった。順番のまま、机の新しい位置の上に置いていった。
「これ、どこの海」
「十歳のとき行った、あの海」
「ああ」と母は言った。「二人で行ったやつ」
「母さんは、来なかったんだよね」
「わたし、船も海も、あんまり好きじゃないの」母は次の一枚をめくった。「お父さん、帰ってきて、何も言わなかったわよ。楽しかったかって訊いたら、寒かった、って」
僕は笑った。父の返事は、いつもそういう長さだった。寒かった、で全部が済むと思っている人だった。済まないから写真を撮っていたのだと、今日まで誰も教えてくれなかった。
母は普通のほうの束をひととおり見終えて、老眼鏡を外した。それから、なんでもない調子でこう言った。
「お父さん、あなたの背中ばっかり撮ってたのよ」
「知ってたの」
「知ってるわよ。何回言ったと思ってるの、顔を撮りなさいって」母は写真の角をそろえた。「振り向くのを待ってるのよ、あの人。待ってるうちに押しちゃうの。だから全部そうなるの」
僕は、机の上に並んだ十一枚の後ろ姿を見た。
待っていた、という話は初めて聞いた。父が待つ人だとは思っていなかった。あの人は、こちらが振り向かないことに黙って耐えていたのではなくて、振り向く瞬間のほうを、ずっと構えて待っていたのだった。三十六年、その一枚は撮れなかった。
母が立ち上がって、台所へ行った。抽斗を開ける音がした。何かをかき回す音がして、それからこちらへ声だけが飛んできた。
「あの携帯の充電器ね、たぶん取ってあるわよ」
(第25話につづく)










