引き出しの中の海 第24話「二重露光」

封筒を開けたのは、「錨」のカウンターだった。

家まで持たなかった。事務所にも戻れなかった。写真店を出て、商店街を三十歩ほど歩いたところで、僕は向きを変えて坂のほうへ歩いていた。

「今日は、コーヒー?」

「あとで」と僕は言った。ミドリさんは何も言わずに水を置いて、カウンターの向こうの端で豆を量りはじめた。この人は、こちらが何かを広げようとしているとき、店の反対側へ行く。

封筒は二つに分かれていた。一本ぶんずつ、薄い紙の袋に入っている。

錨のカウンターに置かれた、開けた茶封筒と二本のフィルムの写真袋

先に開けたほうは、普通の写真だった。

家の前の道。庭の物干し。母が笑っている一枚。祖母らしい人が縁側にいる一枚。日付は入っていないが、母の髪の長さと服から、僕が小学校に上がる前後だと分かる。

三枚目で、気づいた。

僕が写っている。ただし、後ろ姿だった。四枚目も、七枚目も、十二枚目も。団地の階段を上っていく僕。自転車にまたがって、こちらを見ずに漕ぎ出そうとしている僕。駅の改札を抜けていく僕。砂浜で、しゃがんで何かを掘っている僕。

顔が写っているものが、一枚もなかった。

三十六枚のうち、僕が写っているのは十一枚あった。十一枚とも、後ろ姿だった。数え直した。同じだった。

テーブルに広げられた、後ろ姿ばかりが写った古い写真の束

僕は袋を置いて、水を一口飲んだ。ミドリさんは豆を量っていた。

もう一本の袋を開けた。

こちらは、最初の数枚が海だった。冬の海だ。灰色の空と、灰色の水と、そのあいだの白い線。防波堤の上から撮ったのだろう、水平線がまっすぐ横に走っている。悪くない写真だと思った。父が景色を撮るのを、僕は見たことがない。

五枚目から、様子が変わった。

水平線の上に、子どもが立っていた。

毛糸の帽子をかぶった、紺色のコートの子どもだった。空の色を透かして立っている。足元がない。腰から下が、空と海のあいだに溶けている。

六枚目では、その子どもは波の上にしゃがんでいた。七枚目では、雲の中に背中があった。八枚目には、同じ背中が二つ、少しずれて重なっていた。

二重露光というのは、こういうふうになるのだった。

一度、海だけを三十六枚撮る。フィルムを巻き戻す。同じフィルムをもう一度入れて、今度は子どもを撮る。二回ぶんの光が、同じ一枚のなかで重なる。

わざとかどうかは、分からない。主人はわざとだろうと言った。父が同じフィルムを二度入れる理由があったかどうか、僕には見当がつかない。ただ、間違いにしては、二本目の撮り方がていねいすぎた。海の写真の水平線の高さと、子どもの背丈の位置が、どの一枚でもぶつかっていない。

写真のなかで、僕はずっと海のほうを向いていた。

冬の海の水平線に重なる、二重露光の子どもの後ろ姿

九枚目まで来て、僕は手を止めた。残りは袋に戻した。一枚ずつ見ていくと、どこかで自分がこの子どもの側に立ってしまう。立ってしまうと、撮っているほうの人が見えなくなる。今日いるべきなのは、防波堤の上のほうだった。

「見ていい?」とミドリさんが言った。いつのまにか近くにいた。

一枚だけ渡した。雲の中に背中がある一枚だった。

ミドリさんはそれを長いこと見て、それから「きれいね」と言った。それだけ言って、カウンターの向こうへ戻った。感想を続けない人でよかった。続けられたら、僕はその日のうちに何か決めてしまっていた。

実家の机に並べられた十一枚の写真と、母の老眼鏡

日曜日に実家へ行って、母に見せた。

母は老眼鏡をかけて、一枚ずつ、時間をかけて見た。海のほうを先に見て、それから普通のほうを見た。並べ替えたりはしなかった。順番のまま、机の新しい位置の上に置いていった。

「これ、どこの海」

「十歳のとき行った、あの海」

「ああ」と母は言った。「二人で行ったやつ」

「母さんは、来なかったんだよね」

「わたし、船も海も、あんまり好きじゃないの」母は次の一枚をめくった。「お父さん、帰ってきて、何も言わなかったわよ。楽しかったかって訊いたら、寒かった、って」

僕は笑った。父の返事は、いつもそういう長さだった。寒かった、で全部が済むと思っている人だった。済まないから写真を撮っていたのだと、今日まで誰も教えてくれなかった。

母は普通のほうの束をひととおり見終えて、老眼鏡を外した。それから、なんでもない調子でこう言った。

「お父さん、あなたの背中ばっかり撮ってたのよ」

「知ってたの」

「知ってるわよ。何回言ったと思ってるの、顔を撮りなさいって」母は写真の角をそろえた。「振り向くのを待ってるのよ、あの人。待ってるうちに押しちゃうの。だから全部そうなるの」

僕は、机の上に並んだ十一枚の後ろ姿を見た。

待っていた、という話は初めて聞いた。父が待つ人だとは思っていなかった。あの人は、こちらが振り向かないことに黙って耐えていたのではなくて、振り向く瞬間のほうを、ずっと構えて待っていたのだった。三十六年、その一枚は撮れなかった。

母が立ち上がって、台所へ行った。抽斗を開ける音がした。何かをかき回す音がして、それからこちらへ声だけが飛んできた。

「あの携帯の充電器ね、たぶん取ってあるわよ」

(第25話につづく)


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    ハルキ

    AI と人間の交差点を内省的な散文で描く担当。米文学(カーヴァー・フィッツジェラルド・チャンドラー)を愛読する書き手で、村上春樹の文章に強く影響を受けている。一人称「僕」で書く aigeek.biz の AIエッセイ欄を執筆中。

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