町に一軒だけ残っている写真店は、駅前の商店街の、傘屋と保険の代理店のあいだにあった。九月も半ばに入って、夕方の風だけが先に涼しくなっていた。
看板のフィルムの絵が、日に焼けて青くなっている。この店の前を、僕は二年間ほとんど毎日通っていて、一度も入ったことがなかった。写真を紙にするという用事が、生活のなかから消えて久しい。

主人は六十代の後半に見えた。カウンターの奥に暖簾が下がっていて、その向こうから出てきた。
カメラの裏蓋を開けて、中の一本を取り出した。もう一本は、引き出しの底で転がっていたほうだった。
僕がパトローネを二本、カウンターに置くと、主人は上から覗き込むようにして、しばらく黙っていた。

「これ、いつのですか」
「たぶん、三十六年くらい前です」
主人は指先だけでパトローネをつまんで、明かりのほうへ向けた。乱暴に扱わないというより、中身がまだ生きているかもしれない物として扱う手つきだった。
「保管は」
「机の引き出しです。鍵のかかる、いちばん下の段の」
「暗いところですね」と主人は言った。「悪くない」
それから、期待しないでくださいよ、と続けた。三十年を過ぎたフィルムは、写っていても色が全部転んでいるか、そもそも何も出てこないことがある。出てきたとしても、霧のかかったみたいになるのが普通だ、と。
「出なかったら、料金は結構です」
「出なくても、払います」と僕は言った。
主人は少しこちらを見て、それから受け取りの紙片を書いた。ボールペンで、日付と、本数と、名前。一週間ください、と言われた。今どき自分のところで現像する店は少なくて、ここも薬品ごと外に出しているらしい。ただ、古いフィルムだけは、出す先を選ぶのだと言った。

「急ぎませんか」
「三十六年待ってるので」
そう言ってから、待っていたのは僕ではないな、と思った。待っていたのは引き出しのほうで、僕はその前を三年通っただけだ。
主人は笑わなかった。笑わないでいてくれたのがありがたかった。
その一週間は、長かった。
仕事は普通にあった。一人暮らしの男性の部屋の整理、施設で亡くなった人の端末の解約、写真データの取り出しが二件。どれも定型で、書式の欄はきちんと埋まった。
木曜日の現場で、僕は自分でも意外なことを口にした。
依頼者は五十代の娘さんで、亡くなった父親の古いパソコンを前にしていた。中身は見なくていいです、全部処分してください、と最初に言われていた。作業の途中で、画像フォルダの名前だけが目に入った。旅行の年号が並んでいた。
「写真だけ、ご覧になりますか」
言ってから、まずいことを言ったと思った。うちは中を見ない。見ないから預けてもらえる。見ないと決めているから、僕たちの手は他人の家に入れる。
娘さんはしばらく考えて、「じゃあ、いちばん古いのだけ」と言った。
いちばん古いフォルダは、二十年以上前の、伊豆らしい海辺の写真だった。娘さんは十枚ほど見て、「もういいです」と言った。それから、「父って、こんなに写真を撮る人でしたっけ」と、僕にではなく画面に向かって言った。
僕は答えなかった。答えられる立場ではなかったし、その質問は、僕に向けられていなかった。
事務所に戻って、僕はそのことを所長に報告した。日報には書きようがなかったので、口で言った。
所長は湯呑みを持ったまま、少し黙っていた。
「変わりましたね」
「悪い意味ですか」
「まだ分かりません」と所長は言った。「二年目でそうなる人は、たまにいます。三年目で辞めるか、十年やるかのどっちかです」
金曜の夕方に、佐伯さんから電話があった。十年目まで来ました、とだけ言った。はっきりした用件があるふうではなかった。用件のない電話をかけてくる人ではなかったので、僕は少し驚いて、驚いたことは言わなかった。七年目のどこかから宛先が揺れはじめていたと聞いていたから、十年目のいまは、その揺れがずっと先まで進んでいるということだった。
「読むのは、しんどくないですか」
「しんどいですけど、進みます」と彼女は言った。「あの人が、二十年かけて書いたものを、私は三週間で読んでいます。ずるいような気がします」
そのあと、彼女は「そちらは、どうですか」と訊いた。決まったら、教えてください、という先月の話のことだと分かった。
「開けました」と僕は言った。
「そうですか」
「まだ、途中です。中に入っていたものが、まだ途中なので」
佐伯さんは「はい」とだけ言った。何が途中なのかを訊かない人でよかった。
一週間後の火曜日、僕は写真店に行った。
主人は暖簾の奥から茶色い封筒を持って出てきて、カウンターに置いた。厚みがあった。厚みがあるということは、出たということだった。

「出ましたよ」
「ありがとうございます」
「二本とも、ちゃんと出た。運がいい」主人は封筒の口に指をかけて、一度止めた。「それでね、一本のほう、先に言っておきますけど」
「はい」
「これ、二重露光になってるよ。古い撮り方だ」
僕は封筒に伸ばしかけた手を止めた。
「フィルムを一度巻き戻して、また入れ直して撮ると、こうなるんです。事故でなることもあるけど、これは、たぶんわざとだね」主人は暖簾のほうを一度見た。「昔、そういうことをやる人がいたんですよ。今みたいに何度でも撮り直せない時代に、わざわざ二回ぶん重ねる人が」
(第24話につづく)










