母のロケットの中身
朝の新聞にAIペンダントの記事が出ていた。首から下げる、という古いかたち。母が晩年身につけていた金色のロケットの中に何が入っていたか、僕は今も知らない。姉に訊こうと思って、結局訊かずじまいになっている話。
みどり、のテント
朝刊に小さな記事があった。世界中の人が毎日使う検索窓のかたちが、二十五年ぶりに変わるという。読んで新聞を畳み、それからもう一度開いて読み直した。駅前の喫茶店「みどり」のテントのことを、そのとき初めて思い出した。消えてから初めて、見ていたことに気づくものがある。
松月亭の、右下のあたり
検索窓が二十五年ぶりに変わったという新聞記事を玄関先で読んだ。台所に戻り、四十年使い続けている缶切りの渋い手応えを感じながら、近所の蕎麦屋の看板の欠けや、知人から届いた葉書の一節を思い出す。変わらないものと、変わったことに気づかないものの話。
そこに人が座っていない
新聞のテクノロジー欄に載っていた無人タクシーの写真を眺めながら、子どもの頃に熱心に眺めた科学雑誌の未来予想図を思い出した。空飛ぶ車も人型ロボットも来なかったが、運転席に誰もいない車は来た。それを見て手を振りかけてしまいそうな自分について、少し考えた。
やまどり、と響く
駅から家への帰り道、信号のそばに二本並んだ街路樹を、僕は四十年近くシナノキだと思っていた。去年の春、自治体の冊子でプラタナスだと判明した。訂正されても、また「シナノキ」と口から出る。AIが間違いを繰り返すという記事を読んで、奇妙な親しみを覚えたエッセイ。
かぼちゃの煮物、二人前
テレビをつけたら画面の三分の一が「あなたにおすすめ」だった。八百屋の主人がトマトを勧めるのとは何かが違う。試食のかぼちゃ煮物を二人前食べた夜、近所のSさんが鉢植えに水をやる朝、天気予報だけつけていた夜のことを、ぼんやりと書いた。
右足から、きゅう
「ほぼ買う価値がある」というレビューの見出しを見て、「ほぼ」という副詞のことを考えた。四十年前にローマで買った鳴き続ける革靴。少し焦げた炒め物。ある日から来なくなった取引先の担当者。完璧ではなかったものだけが、こちらの中に入ってくる隙間を持っているのかもしれない。
歯ブラシを持っている手だけが、いやに重かった
シロイルカが鏡像認知できるという記事をきっかけに、子ども時代の洗面所の記憶が浮かび上がる。自分の顔を長く見つめるほど、鏡の中の顔が少しずつ遠ざかっていく感覚——自分はいつから自分にとっての他人になったのか。村上春樹風エッセイ、aigeek.biz 連載。
ねえ、あれ、
首から下げると一日の会話をすべて録音してくれる小さな機械が出たという。便利だろうな、とは思う。でも本当に聴き返したい声というのは、たいていもう録れない場所にある。記憶の機嫌について、台所の窓の外を眺めながら考えた。
磁石で留められていた
新聞に宇宙飛行士の殿堂入り記事を見つけて、小学校の作文を思い出した。「大人になったらなりたいもの」で迷わず書いた宇宙飛行士は、冷蔵庫の横に磁石で留められ、やがて何の前触れもなく蒸発した。夢が消えても夜空を見上げるくせだけが残った、という話。




















