新聞のテクノロジー欄に小さな記事が載っていた。AIというものは、間違いを指摘されたあとでも、しばらくすると同じ間違いを自信たっぷりに繰り返すらしい。研究者たちはそれを「確信を持って誤った主張をする傾向」と呼んでいて、なかなか改善されないのだという。記事の脇にグラフが小さく印刷されていて、線が右肩上がりだったか右肩下がりだったか、もう忘れてしまった。
笑い事ではなかった。
うちの近所に、長いあいだ僕がシナノキだと信じていた街路樹がある。駅から家に帰る途中、信号のところに二本並んで立っていて、夏には大きな葉が広がって、秋には黄色くなって落ちる。引っ越してきた最初の年に、なぜかシナノキだと思い込んだ。それで僕は四十年近く、その木をシナノキとして見てきた。妻にも「あのシナノキの下を通って郵便局に行ってきた」と何度も話した。
ところが去年の春、街路樹の管理について自治体の小さな冊子が郵便受けに入っていて、その地区の樹種一覧の中に、はっきりとプラタナスと書かれていた。番地まで一致していたから、間違えようがない。シナノキはどこにも書かれていなかった。
「ああ、プラタナスだったのか」と僕は言った。
それから三日くらいして、また「あのシナノキ」と口から出た。僕は言ってしまってから少し黙った。
地名の読み方というのも、似たようなところがある。子どもの頃に持っていた古い地図帳に、関東のどこかに「山鳥」という地名があって、僕はそれをずっと「やまどり」と読んでいた。三十歳くらいのとき、仕事で知り合った若い人が「あれは『さんちょう』と読むんですよ」と教えてくれた。そういうものか、と思った。しかしその後も、ふと地図でその地名を見かけると、頭の中ではやはり「やまどり」と響く。「さんちょう」とは、なかなか響かない。
記事の研究者たちが何を発見したのか、僕にはよくわからない。ただ、AIが間違いを指摘されたあとでも同じことを繰り返す、という部分には、なんというか、奇妙な親しみを覚えた。機械の中で何が起きているのか、僕には想像もつかない。けれど、いちど信じてしまったことを手放すというのは、機械にとっても、たぶん容易ではないのだろう。
若い頃の僕は、よく知らないことについて、よく知っているふりをして話した。いつだったか誰かと話していて、ある作家の生年が一九〇二年だと言ったことがある。帰ってから調べたら一九〇四年だった。聞いた人は、そうですか、と頷いていたかもしれない。今となっては、いちおう申し訳ない気がする。
夕方、郵便局から帰ってくる途中、信号のところで例の木を見上げた。プラタナスの葉は、シナノキの葉よりも切れ込みが深いらしい。図鑑で確かめたから、これは間違いない。けれど僕の目には、その葉はやはり、シナノキの葉として映る。たぶんこれは、死ぬまで治らない。
ちなみに今日、台所のカレンダーをめくっていなかったことに気がついた。もう三日も五月のままだった。妻も気がついていなかったらしい。我が家には、そういう小さな間違いが、あちこちに残っている。










