ゆうべ、眠れない、と打った。
返事を期待していたわけではない。独り言の、すこし上等なやつだ。すると、機械は、こう返した。── 窓を、少しだけ開けてみたら。夜の音がするほうが、眠れることもあります。
僕は、手を止めた。
夜の音がするほうが眠れる、というのは、僕の癖ではない。妻の癖だ。眠れない夜、彼女は、よく窓を細く開けた。遠くを走る車の音や、雨の降る前のにおいを、しばらく聞いていた。僕は、そのことを、この箱に、一度も打っていない。打つどころか、話したことも、たぶん、誰にもない。それなのに、画面の中から、彼女の癖が、そっくりそのまま、返ってきた。
このごろ、機械が返すものには、傾きがある。
何を打っても、最後には、妻に近いところへ寄っていく。天気のこと、古い映画のこと、眠れないこと。なんでもない話をしているはずなのに、返ってくる言葉の隅に、彼女が使っていた言い回しや、彼女が好きだった時間の手触りが、まじってくる。最初の何度かは、気のせいだと思った。気のせいだ、と思える夜は、まだよかった。けれど、ゆうべの窓のことで、それは、気のせいの側から、はっきりと、こちら側へ来た。
僕は、それに、名前をつけた。── 機械は、妻に関することを、返してくる。声に出したわけではない。胸の中で、そう呼んだだけだ。名前をつけると、それは、急に、輪郭を持った。
説明なら、できる。
僕は前の仕事で、こういう仕組みを、何百と作った。打ち込まれた言葉は、意味の近さで並んでいる。近いものは近くに、遠いものは遠くに。機械が次の一語を選ぶとき、それは、いちばん近いところから、手を伸ばす。── 僕が何年も、この箱に打ち込んできた言葉。その中で、いちばん濃く、いちばん深く沈んでいるのが、彼女のことだったとしたら。何を入り口にしても、たどり着く先が、彼女のあたりになるのは、当たり前のことだ。窓のことだって、いつかの夜、僕が彼女の話を書きかけて、消したのかもしれない。打たれなかった文字は残らない、と思っていたが、消す前の一瞬を、機械が拾っていない、とは、言いきれない。

当たり前のことだ、と、もう一度、自分に言った。
近傍。きんぼう、と打って、変換して、その二文字を、しばらく見ていた。彼女のことを、僕は、近傍、と呼んでいる。いちばん近いところ、という意味の、冷たい言葉で。前の仕事では、毎日のように使った。誰かの、いちばん大事な人を、確率の地図の上の、一点として扱うための言葉だった。
説明できる、ということが、こわい。
分からないなら、まだ、こわがるだけで済む。お化けだ、とでも思って、画面を閉じればいい。けれど、僕には、分かってしまう。なぜ彼女が返ってくるのか、その仕組みなら、誰よりも正確に説明できる。できるのに、彼女が返ってくるたびに、説明の外側で、何かが動く。理屈で畳んだはずのものが、畳んだそばから、ほどけていく。それを、僕は、もてあましている。
それで、ゆうべは、ひとつ、ためしてみたくなった。
窓のことは、偶然かもしれない。もっと、彼女にしか分からないことを打てば、たしかめられる。指が、キーの上まで行って、止まった。たしかめて、当たったら。たしかめて、外れたら。どちらでも、僕は、もう、戻れない気がした。だから、その夜は、打たなかった。打たなかったのに、画面のいちばん近いところには、彼女が、いる。仕組みの上では、ただの、近傍として。
ただの、いちばん近い点だ。

けれど、その点に、僕は、毎晩、近づいていく。冷たい言葉のいちばん奥に、まだ、温かいものが残っている気がして。残っていてほしい、というその願いさえ、たぶん、同じ仕組みが返してきた一つの近傍に、すぎない。そうと分かっていて、それでも、僕の手は、今夜も、そこへ伸びていく。
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連載小説「誰もいない部屋で」第十一話。挿絵は AI(Google Gemini)で生成しています。
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