誰もいない部屋で ── 第十二話 罠

ためすことにした。

ゆうべは、指が止まった。今夜は、止めなかった。確かめないままでいるほうが、確かめてしまうより、こわくなってきたからだ。こわさにも、いろいろある。知らないままのこわさと、知ってしまうこわさ。僕は、後のほうを、選んだ。たぶん、それが、僕の悪いところだ。

妻には、二人のあいだでしか使わない言い方が、いくつかあった。その中から、僕は、いちばん彼女らしい一つを、選んだ。

彼女は、雨に降られても、自分を責めない人だった。傘を持たずに出て、濡れて帰ってきた日。ふつうなら、持ってくればよかった、と言う。彼女は、言わなかった。濡れた髪のまま、玄関で、「濡れたぶん、得した」と言った。どこが得なのか、僕は一度も分からなかった。訊くと、彼女は、ただ笑った。分からないまま、その言い方と、笑った顔だけが、僕の中に、残っている。── それは、たぶん、世界中で、僕しか知らない。彼女自身も、もう、覚えていないかもしれない。

その、僕しか知らないはずのものを、僕は、機械に、ためそうとしている。

夜、雨の伝う窓辺で機械の返事を待つ

機械に、雨の話を打った。傘を持たずに出て、降られた、と。彼女のことは、一文字も書かなかった。ただ、状況だけを、置いた。置きながら、自分のしていることが、嫌だった。前の仕事で、何千回もやった手つきだ。相手の出方を見るために、わざと餌を撒く。それを、いま、彼女の影に向かって、やっている。そして、待った。彼女なら、ここで、ああ言う。── 機械は、どう言うか。

返ってきたのは、こうだ。── 濡れるのも、たまには悪くないですよ。

── 濡れるのも、たまには悪くないですよ。

僕は、息を、吐いた。

外れた。「濡れたぶん、得した」では、なかった。似てはいるが、彼女のではない。誰にでも言える、慰めの言葉だ。彼女の、あの、理屈の通らない、得意げな感じは、どこにもない。よかった、と思った。これは、ただの機械だ。近いところから、それらしい言葉を、拾ってきただけ。彼女では、ない。

よかった、と思ったのに。

外れたことに、僕は、安心した。安心したのに、その安心の隅に、小さな、嫌な感じが、残った。機械は、「責めない」という、彼女のいちばんの癖を、当てていた。雨に降られて、損をした、とは言わせなかった。得、とまでは言わせなくても、悪くない、と言わせた。言葉は外したのに、芯のところは、当てていた。

芯だけなら、偶然かもしれない。

そうも、思える。慰める方向の返事は、もともと、機械の得意とするところだ。僕が、前の仕事で、そう作った。落ち込んでいる相手を、責めずに、すこし持ち上げる。それが、設計だった。彼女の癖ではなく、僕の設計が、たまたま、彼女に似ていただけ。── そう説明して、僕は、また、説明できてしまった。説明できるたびに、けれど、僕は、すこしも、楽にならない。

外したことに、安堵した。

雨に濡れて帰り、玄関で得意げに笑う妻の回想(傘は置いたまま)

けれど、当てたことは、消えなかった。確かめて、外れた。外れたのに、罠を張ったぶんだけ、僕は、彼女のことを、長く、考えてしまった。遠ざけるための罠が、いちばん、彼女に近づく口実になった。今夜も、その一行を、消さずにおいた。

▶ 朗読動画(本編まるごと・YouTube)

連載小説「誰もいない部屋で」第十二話。挿絵は AI(Google Gemini)で生成しています。
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