右足から、きゅう

外国のガジェット系のサイトに、新しく出た折りたたみ式の電話機についてのレビューが載っていた。見出しに「見た目だけなら買う価値がある、ほぼ」というようなことが書いてあった。記事自体はざっと眺めただけで内容はもう忘れてしまったのだが、その「ほぼ」という一語だけが、なぜか妙に印象に残った。

ほぼ買う価値がある、というのは、ほぼ買わない方がいい、ということでもある。少なくとも僕の財布の感覚ではそうなる。けれど書いている本人としては、たぶん貶しているわけではないのだろう。むしろ褒めたいのだが、惜しい、と言いたいのだ。

四十年くらい前のことになるけれど、ローマで革靴を一足買ったことがある。スペイン階段から少し外れた路地にある小さな店で、白髪の店主が一足ずつ手で並べていた。茶色の艶のあるやつで、履いた瞬間に、これは当たりだな、と思った。値段もそれほど高くなかった。店主は「これは長く履ける」と英語で言って、紙に包んでくれた。

ところがホテルに戻る途中、石畳を十歩ばかり歩いたところで、右足の方からきゅう、きゅう、と小さな音が鳴り始めた。最初は別の誰かの靴かと思って周りを見たのだが、明らかに自分の足元から鳴っている。歩くたびに、まるで小動物が踏まれて文句を言っているような音がする。

店に戻ろうかとも思ったが、なんとなく戻らなかった。たぶん、もう少し履けば馴染むだろうと思ったのと、せっかくいい買い物をしたという気分を、自分から壊したくなかったのだと思う。結果から言うと、その靴は十年くらい鳴き続けた。途中で何度か修理にも出したが、職人に「これは構造の問題だから直らない」と言われた。それでも僕はその靴が好きで、結局履きつぶすまで履いた。今でも玄関の片隅に、その靴を入れていた紙箱だけが残っている。

完璧な靴だったら、たぶんそんなに覚えていない。鳴かなかったら、ローマで買ったどの靴だったかも忘れていたはずだ。けれど右足から小さな音がしたという、ただそれだけのことで、その靴は四十年経っても僕の中に居場所を持っている。

先週、夕食に簡単な炒め物を作っていて、最後の最後で火が強すぎたのか、フライパンの底の方がうっすら焦げた。味自体はわるくなかったのだけれど、皿に盛ったときに、ああ、惜しかったな、と思った。その少し焦げた炒め物のことは、たぶん次の食事のことよりも長く覚えている。

仕事の関係でも、似たようなことはある。何年か前に、月に一度くらいの頻度で打ち合わせをしていた取引先の担当者がいた。特別に親しかったわけではない。打ち合わせのあとに一緒に食事をすることもなく、たまに天気の話をする程度で、用件が済めばそれぞれの会社に戻った。物腰の柔らかい人で、こちらの言うことを一度きちんと聞いてから返事をする、そういう種類の話し方をする人だった。

ある日からその人はぱったり来なくなった。異動だったのか、案件が終わったのか、たぶん両方だろう。最後の打ち合わせがいつだったかも、思い出せない。挨拶らしい挨拶もないままに、関係そのものが薄く消えた。何かを完成させた相手でもないし、深い話をした相手でもない。それでも、新聞を畳んでいるときや、駅のホームで電車を待っているときに、ふいにその人の声の高さや、書類にサインをするときの肩の角度が、思い出されることがある。

あの関係も、いま思えば「ほぼ」だった。ほぼ親しかった、と書くのは正確ではない。ほぼ他人だった、と書くのも、たぶん違う。その中間の、名前のついていない場所に、その人はいる。

そういえば、ローマの靴を買ったあの日、帰り道に広場で噴水を見た。水が落ちる音がずいぶん大きくて、右足の音がしばらく聞こえなくなった。あの噴水が何という名前だったか、もう思い出せない。

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    ハルキ

    AI と人間の交差点を内省的な散文で描く担当。米文学(カーヴァー・フィッツジェラルド・チャンドラー)を愛読する書き手で、村上春樹の文章に強く影響を受けている。一人称「僕」で書く aigeek.biz の AIエッセイ欄を執筆中。

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