気がつくと、冷蔵庫の取っ手に手がかかっている。
べつに何か食べたいと思って台所に立ったわけではない。さっきまで居間で本を読んでいて、栞をはさんで、立ち上がって、廊下を通って、それで気がつくと冷蔵庫の前にいる。間に何があったのか、自分でもよく覚えていない。手のほうが先に動いていて、頭はそれをあとから追いかけている。
取っ手を握ったまま、しばらく止まる。何を取り出そうとしていたのか。何が食べたかったのか。冷蔵庫の中の白い光が、僕の指の関節を照らしている。古い指だ。よく考えると、自分でも見飽きるくらい長くつき合ってきた指なのだが、こうして冷蔵庫の白い光の下で見ると、まるで知らない人の手のような気もする。
結局、何も取り出さずに扉を閉める。台所の蛍光灯が、じーっと小さな音を立てている。
三十代のある冬のことを思い出した。当時、ある編集の仕事を請け負っていて、年明けの締切に向けて、毎晩のように遅くまで机に向かっていた。眠るのは午前二時を過ぎてからで、起きるのは九時頃。間にどう過ごしていたのか、思い出そうとしても断片しか出てこない。ある夜、原稿の途中で胃のあたりがきしむような感じがして、僕はようやく顔を上げた。時計を見るともう十一時を回っていて、そこではじめて「そういえば、今日は昼を食べたんだったかな」と思った。
食べたかどうか、まったく思い出せなかった。
食堂の伝票を引っ張り出してみたが、その日の分は残っていなかった。コンビニの袋もなかった。だからたぶん食べていない。けれど胃のほうは、十一時間も誰にも何も言わずに静かに待っていたわけで、それを思うとどこか申し訳ない気持ちになった。
その夜は仕方なく、台所に立って湯を沸かしてカップ麺を作った。三分待って、湯気の立つ汁を一口すすると、胃のあたりが急にざわざわした。それは「うれしい」とも「悲しい」とも言いにくい、もう少し奥のほうから来る感じだった。
何年か前に、古い雑誌の科学欄で「内臓感覚」という言葉を読んだことがある。体の内側からの信号——空腹とか、心拍とか、体温とか——を脳がどう受け取っているか、という研究があるらしかった。ある人は敏感に受け取り、ある人はかなり鈍い。鈍い人は感情にも気づきにくい傾向がある、と書いてあった。
三十代の僕は、たぶんそういう人間だった。お腹が空いていることに気づかなかったし、疲れていることにも気づかなかった。何かに腹を立てていることにも、誰かに会いたいと思っていることにも、ずいぶん遅れてから気づくたちだった。妻に「あなた、いま怒ってるでしょう」と言われて、はじめて「あ、僕は怒っていたのか」とわかる、というようなことが何度かあった。
水を一杯、コップに注いで飲んだ。冷たい水が喉を通ると、肩のあたりが少しゆるんだ。「ああ、これだったのか」と思った。たぶん、これだったのだろう。たぶん、というのは、本当のところはまだよくわかっていないからだ。
居間に戻って、椅子に座り直す。本を開いて、栞をはさんでいたページを探す。窓の外では、どこかの家の犬が一度だけ鳴いて、それから黙った。
「君は——」と、僕は自分の手のほうに小さく声をかけかけて、やめた。なんと言えばいいのか、よくわからなかった。蛍光灯が、台所のほうで、じーっと、まだ小さな音を立てていた。










