既読にならないまま止まった一行を、どうすればいいか、という相談だった。
来たのは三十代の後半くらいの男の人で、父親を先月亡くしたのだと言った。心臓で、急だった。倒れる前の日まで、いつもどおりだったそうだ。男の人は、父親の携帯電話をテーブルに置いて、開いた画面を、こちらに向けた。メッセージのやりとりが表示されていた。相手は、この人自身だった。
「いちばん下の、これです」と男の人は言った。画面のいちばん下に、自分が送った一行があった。その横に、小さな文字で「未読」と出ていた。送った日付は、父親が倒れる、前の晩だった。
窓の外を電車が通って、書類棚のガラスがすこし鳴った。所長は携帯を、いつものように下のほうから読んだ。いちばん下の、その一行から。

「大したことは、書いてないんです」と男の人は言った。「今度の休みに、そっちに顔を出す。それだけです。返事は、いつも遅い人だったから、その晩も、まだかな、くらいに思っていて」。翌朝、電話が鳴った。返事のかわりに、親戚からの、知らせだった。「父は、たぶん、これを、読んでいない」と男の人は言った。「開かないまま、寝て、そのまま」
未読、という二文字が、こんなに重いものだとは、思っていなかった。既読、という青いしるしは、つくときには何とも思わない。毎日、何十とついては消えていく、ただのしるしだ。それが、二度とつかないと決まった瞬間だけ、急に、取り返しのつかない重さになる。父親は、息子が来ると知らないまま逝った。その一行を、確かに受け取りながら、開くことのないまま。

N君が、めずらしく、口を開いた。「消しますか」と、静かに言った。「未読のしるしだけ、消すことはできます。既読には、できませんけど」。そういう技術があることを、僕はこのとき初めて知った。しるしを消しても、読まれた事実にはならない。ただ、未読、という二文字が、画面から消えるだけだ。
「消したら」と男の人は言いかけて、止まった。「消したら、父が、読んだことに、なりますか」
「ならない」と所長は言った。湯呑みを置いた。「未読は、こっちで消せる。だが、消しても、読んだことにはならない」。それから、いつもより長く黙って、こう続けた。「読んだかどうかは、しるしが決めることじゃない。あんたが、送った。それは、消えない。届いてから開くまでのあいだに、人が死ぬことは、ある。それは、あんたのせいじゃないし、しるしのせいでもない」

男の人は、うつむいて、しばらく動かなかった。それから、消さないでください、と言った。「未読のままで、いいです。父が、まだ、開けるところだった、というふうに」。所長はうなずいた。うちは読まない、消さない、そのまま閉じます、と言った。その一行だけは、未読のしるしをつけたまま、携帯は静かに電源を落とされた。開かれなかった一行を、開かれなかったまま、閉じた。うちの仕事は、たぶん、そういう仕事だ。
その晩、僕は自分の送信履歴を、久しぶりにさかのぼった。父とのやりとりは、ほとんど残っていなかった。用件が済むと「じゃあ」と切る人は、文字でも同じで、僕が送ったものに、父はいつも、短い返事しかしなかった。既読だけついて、返事のない行も、いくつかあった。あのとき、父は読んでいた。読んで、返さなかった。読まれて返らないのと、読まれないまま止まるのと、どちらが軽いのか、僕には決められなかった。
翌日、また実家に行った。二日続けてだった。母は何も言わずに、お茶を淹れた。用件の前に天気の話をする人が、その日は、天気の話をしなかった。僕が何をしに来たのか、たぶん、分かっていた。
僕は父の書斎に入って、輪ゴムの束を持ち上げた。鍵は、昨日と同じところに、同じ形でいた。今日は、それを、持ち帰ることにした。手のひらに載せると、思っていたより軽かった。開けたわけではない。まだ、開けない。ただ、いつもの場所に置きっぱなしにしておくのを、やめただけだ。似た形の何かを別の引き出しに入れて閉じたことにするのとは、逆のことを、僕は初めてした。空いた場所に、何も入れずに、鍵のほうを、こちらへ移した。

帰りの電車で、鍵を上着の内ポケットに入れたまま、僕は窓の外を見ていた。膝の上に、今日はキャリーケースはなかった。それでも、何かを一つ、二駅ぶん運んでいる気がした。電車が揺れるたびに、内ポケットのあたりが、ほんの少しだけ、重かった。
(第9話につづく)
朗読動画(フルバージョン)
消しても読んだことにはならないなら、あなたは、その未読を消しますか。
声: VOICEVOX(雀松朱司ほか)/音楽: Suno「波を数える」/挿絵: Nano Banana Pro(編集部作成)
『引き出しの中の海』目次 第1話 静かな机/第2話 錨/第3話 Sonar/第4話 セロニアス/第5話 待ち受け/第6話 偽物/第7話 差出人/第8話 未読
『引き出しの中の海』は毎日20時に1話ずつ更新します。












