月曜の朝、机の上に日報の用紙が置いてあった。空欄は五行。上の四行はいつもどおり──案件番号、対応時間、作業内容の欄が「全件保存」の文字で埋まっている。五行目だけが白い。所感、という見出しがついている欄で、僕はここを埋めたことが、この二年でほとんどない。
ペンを持って、しばらく止まった。書くべきことは分かっていた。金曜、佐伯さんに話した話──父の引き出し、写真、下書きの三行、海に行ったこと。所長にはまだ、ひとことも話していない。
「私用の話が、案件の中に混ざっていました」と書いた。「担当者自身の私事が、依頼者への回答の一部になりました。詳細は省きますが、記録しておきます」

書き終えて、日報を所長の机に置いた。所長は昼過ぎまでそれを見なかった。見たときも、何も言わなかった。ただ、通りかかりざまに僕の肩のあたりに向かって、
「あなたのお父さんの話でしょう」
と言った。訊いたのではなく、確かめる言い方だった。
「はい」
「詳しくは訊きません。訊く筋合いでもない」
所長はそこで一度、窓のほうを見た。それから珍しく続けた。
「私にも、開けていない引き出しがひとつあります。もう長いこと」
「所長にもあるんですか」
「誰にでもあります。この仕事をしていると、それがよく分かる」
それだけだった。所長はいつもの顔に戻って、奥へ戻っていった。詳細を語らないところが、所長らしいと思った。
自分の席に戻ってから、上着の内ポケットに手をやった。父の鍵は、まだそこに入っている。写真と携帯は先週、実家へ持って帰った。鍵だけは、なぜかまだ持ち歩いている。開けた引き出しの鍵を、まだ持ち歩く理由はもうないはずなのに、外す気になれなかった。所長の「私にもある」という一言のせいかもしれない。開けたか、開けていないかは、鍵を手放せるかどうかとは、また別の話なのかもしれなかった。

N君が湯呑みを片付けながら、「今日、何かあったんですか」と訊いてきた。「所長が珍しく、係長席のほうまで来てましたよね」
「日報の話」
「怒られたんですか」
「いや」と僕は言った。「たぶん、逆」
N君は納得のいかない顔をしたが、それ以上は訊かなかった。二年一緒にいて、N君は僕の「たぶん、逆」がどういう意味か、だいたい察するようになっている。察して、深追いしないことも覚えている。
昼休み、「錨」に寄った。ミドリさんはカウンターの中で豆を挽いていて、僕が座ると挽く手を止めずに「顔つき、変わったね」と言った。
「そうですか」
「肩の高さが違う。前は、片方だけ上がってた」
コーヒーを出されて、僕は少しだけ話した。海に行ったこと、佐伯さんに答えたこと、今朝、所長に話したこと。全部ではない。三行の中身までは言わなかった。ミドリさんもそれを訊かなかった。
「渡す言葉と、墓に入れる言葉の話、覚えてる?」
「覚えてます」
「あなたのは、どっちだった」
僕はしばらく考えて、「まだ分かりません」と答えた。ミドリさんは笑って、「それでいいんじゃない」と言った。「分かった顔して墓に入れるより、よっぽどいい」
大げさな話にはならなかった。ミドリさんは僕の肩のことをもう言わなかったし、僕もそれ以上は言わなかった。半分だけ、荷を下ろしたような午後だった。
会計をするとき、壁の錨に目が行った。錆びて、もう何十年も潮を見ていない小さな錨。ミドリさんが「これ、上げるための錨じゃないのよ」と昔言ったことがある。「係留するための錨。船を、その場に留めておくためのもの」。それを壁に掛けているのは、留めておく側から外して、飾りにしたということだ。役目を終えた道具は、こうして壁の上で静かにしていられる。僕の鍵も、いつかそうなるのだろうか。

事務所に戻ると、電話が鳴っていた。N君が出て、メモを取りながら僕のほうを見た。切ってから、少し困った顔で言った。
「次の現場、変わってますよ。Sonarが二台あるんです」
「二台?」
「ご夫婦で、それぞれ別のを使ってたらしくて。奥さんのほうは残す、旦那さんのほうは消す。でも二台の会話履歴が絡み合っていて、どっちの発言かの切り分けが要るって……。見積もり、来週伺うことになりました」
僕は少し笑った。世界には、まだ知らない形の引き出しがいくらでもある。

窓の外で、宅配のバイクが信号待ちをしていた。母にはまだ、何も話していない。今度実家に行くときに話そうと決めて、その「今度」がいつになるかは、まだ決めていなかった。
日報の五行目を思い出した。詳細は省きますが、記録しておきます、と僕は書いた。省いた詳細のほうが、たぶん本当の記録だった。それでも、書かないよりはよかった。
月曜は、僕の事情とは関係なく始まる。今日も、明日も、たぶん来週も。
(第30話につづく)












