火曜の午後、佐伯さんが事務所に来た。四度目だった。
電話をかけたのは僕のほうからで、用件は言わなかった。「一度、お会いできますか」とだけ言った。彼女も理由を訊かなかった。訊かないまま、二日後の午後を指定してきた。
応接の椅子は四脚あって、いつも二脚ずつ向かい合わせに置いてある。その日は僕が先に来て、彼女の座る側の椅子を、少しだけ窓のほうへ向けた。理由はうまく言えない。正面から向き合う形が、今日の話には強すぎる気がした。

彼女はいつもと同じ紺色の上着で来て、いつもと同じように、出した湯呑みを両手で包むように持った。八月の終わりに家へ伺ったときより、少し陽に焼けているように見えた。

「読み終わりました」と彼女は言った。「全部です」
僕は湯呑みを持ったまま、少し待った。
「二十年分を、三週間かけて読みました。途中で三回やめました。三回ともまた開きました」
「そうですか」
「最後の一行まで行きました。あなたが読んでいないと言った、あの行です」
四月十四日の、二十年目の誕生日の行。報告ではなく、二十年で唯一の質問だった行。母さんに、話してもよかっただろうか。
「答えのほうは」と彼女は言った。「設定を戻せば見えると、端末をつけてくれた若い方に教わりました。でも、戻していません」
「読まなかったんですね」
「読まないことにしました。あれは、あの人が自分に訊いた質問だと思ったので」
彼女はそこで一度、湯呑みを置いた。
「それで、伺いに来ました。あなたのほうの返事を」
僕は、内ポケットの上から手のひらで軽く押さえた。写真と、父の携帯が入っている。厚みが二つある。彼女の視線がその動きを追ったのが分かった。

こういうとき、うちの仕事の作法では、依頼者に自分の話をしない。所長がそう言ったことは一度もないが、二年やっていれば分かる。分かるようになっていて、それでも今日は違うことをしようと、電車の中で決めていた。
「先に、僕の話をしてもいいですか」と僕は言った。「そのほうが、返事として正確になる気がするので」
彼女は少し驚いた顔をして、それから「どうぞ」と言った。
僕は、父の机の一番下の引き出しのことを話した。三年前に父が死んで、鍵の在り処に見当がついていたのに、春まで開けなかったこと。九月の初めに母と机を動かして、その日のうちに開けたこと。中に、撮り切ったフィルムと、電池の切れた携帯と、写真が一枚入っていたこと。
「写真は、十歳の僕の後ろ姿でした。冬の海で、波打ち際に立っています。裏に、父の字で一行だけ書いてありました」
「なんと」
「十歳の冬。おまえはずっと波を数えていた、と」
彼女は湯呑みに手を戻さなかった。
「携帯のほうには、送られていない下書きが一通ありました。宛先は僕です。三行あって、三行目の途中で切れています。十歳の冬、おまえと行った海のことだが——、というところで」
「続きは」
「ありません。回線はもう解約されていました。最初から、送れない文章です。父がそれを知っていて書いたのかどうかは、分かりません」
言いながら、自分の声が思ったより平らなことに、少し驚いた。海に行った日から、この話を頭の中で何度も並べ直していたからかもしれない。
「先週、その海に行ってきました。続きが分かる気がしたんです。でも、何も分かりませんでした。波を数えてみましたが、数は減りませんでしたし、続きの言葉は、あそこには置かれていませんでした」
彼女は黙って聞いていた。ときどき、うなずくでもなく、目だけを少し動かした。
「それで、決めました。分からないものを、分かったことにしない。見つからなかったことを、見つからなかったまま持って帰る、と」
「持って帰る」と彼女は繰り返した。
「消しませんでした」と僕は言った。「消せませんでした、のほうが、たぶん正確です」
窓の外を、宅配のトラックが徐行して通り過ぎた。荷台の扉が閉まる音が、二回した。
「あなたは、決められたんですね」と彼女は言った。
「いいえ」と僕は答えた。「決めたのは、消さないということだけです。あの三行の意味は、まだ何も決まっていません。決めないまま持っている、という決め方をしました」
彼女はそこで、初めて笑った。困ったような、けれど安心したような笑い方だった。
「それ、ずるいですね」
「ずるいと思います」
「でも、わたしもそうします」
彼女は湯呑みを両手で包み直した。
「二十年分、残します。消しません。読み終わったから消せる、と思っていたんですけど、読み終わってみたら、逆でした。中身を知らないうちは、消すという言葉が軽かったんです。知ってしまったら、重くて持ち上がらなくなりました」
「重いままで、置いておくことはできます」
「ええ。置いておきます。あの人の分と、シュウヘイの分と、両方」
僕は書類を出して、作業内容の欄を書いた。八月の終わりに彼女の家で「保留」と書いたのと、同じ紙の二行下だった。今度は迷わなかった。
——依頼者の指示により、全件保存。
書式にはやはり無い書き方だったが、所長には後で言えばいいと思った。

帰りぎわ、彼女はエレベーターの前で立ち止まって言った。
「お父さんの下書きの続き、いつか分かるといいですね」
「分からないままかもしれません」
「それでも、いいと思いますよ」と彼女は言った。「うちの人の最後の一行も、質問のままです。質問のまま置いてある文章って、たぶん、まだ終わっていないということでしょう」
扉が閉まって、階数の表示が下がっていくのを、僕はしばらく見ていた。
席に戻ると、所長が奥から出てきて、僕の机の上の書類を、立ったまま上から読んだ。全件保存の一行のところで、目が一度止まったのが分かった。
「これ、日報のほうはどうします」と僕は訊いた。
所長は少し考えてから言った。
「書いてください。今度のは、書いていいやつです」
(第29話につづく)









