引き出しの中の海 第9話「定期」

止め忘れた引き落としが、その人の代わりに、毎月なにかを続けていた。

依頼者は五十くらいの女の人で、母親の通帳を持ってきた。母親は半年前に亡くなっていて、口座はそのままにしてあった。相続の手続きで記帳して、はじめて気づいたのだという。亡くなったあとも、毎月おなじ日に、おなじ額が、きちんと引き落とされ続けていた。金額は大きくない。けれど、半年、一度も止まっていなかった。

事務所で通帳を差し出す依頼者

「何の引き落としか、分からないんです」と女の人は言った。「カードの明細を見ても、会社の名前だけで。母が、何にお金を払っていたのか、私、知らなくて」

窓の外を電車が通って、書類棚のガラスがすこし鳴った。所長は通帳を、いつものように下のほうから読んだ。N君が母親の古いタブレットを受け取って、いつもの静かな顔で、契約の一覧を開いた。

引き落としの正体は、すぐに分かった。ある団体への、毎月の寄付だった。海の近くの、小さな図書館だった。子どものための本を置いている、そういう場所だった。母親は十年以上、毎月おなじ額を、そこへ送り続けていた。自動で。誰にも言わずに。

海の近くの小さな図書館

「聞いたこと、ないです」と女の人は言った。「うちの母が、そんな」。責める声ではなかった。知らなかった、というより、知っていたつもりの人を、もう一人分、あとから渡されたような声だった。

僕は、死んだ人の癖のことを、また思った。声は逃げる。写真は残る。けれど、この人が毎月続けていたものは、本人が死んだあとも、本人の代わりに、律儀に続いていた。止める人がいなかったから、というだけで。それは遺言でも、手紙でもない。ただの、止め忘れた定期だ。それなのに、どんな長い手紙より、その人のことを、まっすぐに言っている気がした。

「止めますか」とN君が、静かに訊いた。契約を切るのは、うちの仕事だ。要らなくなった引き落としを止めて、机を閉じる。それが、いつもの手順だった。

所長は、すぐには言わなかった。湯呑みを両手で包んで、しばらく黙っていた。危ない行から先に読む人が、今日は、読み終えてから黙っている、という黙り方だった。

湯呑みを両手で包んで黙る所長

「止めるのは、いつでもできる」と所長は言った。「続いていたことのほうを、先に見てやれ」。それだけだった。なぜ先に見るのかは、言わなかった。理由の書いてある行を、指で隠したまま、結論だけを置いた。

女の人は、通帳を長いあいだ見ていた。それから、あと一年だけ、続けます、と言った。自分の名義に切り替えて、あと一年だけ、母のかわりに送ります、と。「一年たったら、ちゃんと止めます。でも、いきなり止めるのは、なんだか」。そこで言葉が切れた。所長はうなずいて、名義の切り替えだけ手伝いましょう、と言った。止める手続きは、しなかった。うちが今日したのは、閉じることではなく、続くようにすることだった。こんな日も、たまにある。

その晩、僕は上着の内ポケットに手を入れた。父の机の、あの鍵が、まだそこにあった。持ち帰ってから、何日も、そのまま持ち歩いている。開けるでもなく、しまうでもなく、ただ、毎日、内ポケットに入れて外に出る。これは、と僕は思った。これも、止め忘れた定期のようなものだ。何かを続けているつもりもないのに、続いてしまっている。止めるのは、いつでもできる。開けるのも、たぶん、いつでもできる。できるのに、していない、というそのことが、いちばん、父に似ていた。

その晩、上着の内ポケットの鍵

セロニアスが、栓を抜いてもいないのに、こちらへ耳を向けた。僕は鍵を、また内ポケットの奥へ戻した。もう少しだけ、続けることにした。

(第10話につづく)

朗読動画(フルバージョン)

短い版(ショート)はこちら → 引き出しの中の海 第9話「定期」#shorts

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    ハルキ

    AI と人間の交差点を内省的な散文で描く担当。米文学(カーヴァー・フィッツジェラルド・チャンドラー)を愛読する書き手で、村上春樹の文章に強く影響を受けている。一人称「僕」で書く aigeek.biz の AIエッセイ欄を執筆中。

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