鍵を鍵穴に差し込むところまでは、もう何度も、夢の中でやっていた。
夢の中では、いつも同じところで終わる。鍵を差し込んで、指に少し力を入れて、そこで目が覚める。回した記憶はない。回さなかった記憶もない。ただ、朝になるとポケットの中で、鍵がいつもより重く感じられる、それだけだった。
その日の午前中は、事務所も静かだった。前の週から預かっていた小さな案件——独居の老人の、写真だけを遺族に渡す仕事——を、N君がちょうど閉じたところだった。「全部で八十七枚でした」とN君が言った。「多いんだか、少ないんだか、分かんないですね、こういうのって」。所長は何も言わず、湯呑みを持って窓のほうを向いていた。窓の下を、いつもの時間の電車が通り過ぎた。ガラスが小さく鳴って、それで午前が終わった。

昼前、母から電話があった。「お昼から、駅前まで買い物に出るから」。それだけ言って、少し間をおいてから、「机、見るなら、今日でも」と付け足した。急かす声ではなかった。ただ、いつまでも言わずにいるのも変だ、というふうな声だった。
実家に着くと、母はもう出かけたあとだった。台所のテーブルに、鍵は置いてあるでしょう、というメモが一枚。書斎のドアを開けると、セロニアスが父の椅子の上で丸くなっていた。片目だけ開けて僕を見て、それから、興味なさそうにまた閉じた。三年経っても、あの椅子だけは変わらない。
机の前に座る。上の三段は、もう何度も開けたことがある。一段目には測量の古い記録、二段目には万年筆と使いかけのインク、三段目には、僕と父が十歳の冬に行った海の写真が一枚。防波堤の先で、父が僕の帽子を風で飛ばされないよう押さえている、その一瞬だけの写真だった。一番下だけが、いつも鍵がかかっていた。見た目には他の段と同じ木の色のはずなのに、鍵がかかっているというだけで、そこだけ違う色に見える。

僕は上着の内ポケットから鍵を出した。何日も持ち歩いて、体温にすっかり馴染んだ鍵だった。事務所でうちが閉じるのは、いつも他人の引き出しだ。読まない、消す、渡す——決めるのは依頼人で、僕らはただ手を動かすだけでいい。自分の分だけは、代わりに開けてくれる人がいない。それを、今日はじめて、ちゃんと分かった気がした。
鍵を鍵穴に差し込む。夢の中とおなじだった。ひやりとした金属の感触。回そうとして、指に力を入れる。古い錠は少し固く、動く手前でわずかに軋んだ。
その軋みで、手が止まった。開けたくないわけではなかった。ただ、開けた瞬間に、父がどんな人だったか、今と違う形で決まってしまう気がした。三年間、決めずにいられたことを、ここで急いで終わらせたくなかった。
鍵穴のふちに、ごく浅い擦り傷があるのに、そのとき気づいた。前に見たときにはなかったはずだ。母が、僕の知らないところで、一度は試したのかもしれない。それとも、僕自身が忘れているだけで、以前にもここまで来たことがあったのかもしれない。どちらだとしても、確かめる気にはなれなかった。この机の前に立ったのは、自分ひとりだと、ずっと思っていた。それが、少し違うのかもしれないという可能性だけが、今日は残った。
鍵は、回さなかった。抜いて、また内ポケットに戻す。セロニアスが椅子の上で、伸びをした。僕は書斎の電気を消し、玄関の鍵を締めるとき、もう一度だけ振り返った。窓に西日が当たって、二階の書斎だけが、家の中でいちばん静かな色をしていた。
帰り道、商店街の外れの「錨」に寄った。ミドリさんはカウンターの中で、コーヒー豆を計っていた。「今日は、瓶?」と訊かれて、うなずいた。栓を抜く小さな音がして、それだけで、少し息がしやすくなった。「実家、行ってたの」とミドリさんが言った。訊いたというより、確かめるような言い方だった。「開けたの?」とは訊かれなかった。ただ、「まだ、なんでしょ」とだけ言われた。それで十分だった。カウンターの隅には、船具がひとつだけ飾ってある。錆びた小さな錨で、何に使うものかは、ミドリさん自身もよく知らないらしい。「使い道のわからないものを、ずっと飾っておくのも、悪くないでしょ」と、前に彼女は言ったことがある。今日は、その言葉のことを、少しだけ考えながらビールを飲んだ。

事務所に戻ると、留守電のランプが点いていた。N君が「所長宛てだと思うんですけど」と言いながら、再生ボタンを押した。

知らない女の人の声だった。低く、少し迷いながら、言葉を選んでいるふうだった。「あの、こちらは、亡くなった人が、機械に——Sonarに、ずっと何か打っていたような場合も、扱っていただけますか」。そこで一度、声が止まった。「夫が、毎晩、何か書いていたみたいで。中学校で、理科を教えていました」。
留守電はそこで切れていた。折り返しの番号だけが、機械的な声で残されていた。
所長は湯呑みを持ったまま、しばらく黙っていた。それから、「かけ直しておいて」とだけ言った。誰が担当になるかは、言わなかった。
僕はポケットの中の鍵に、また手を触れた。回さなかった鍵と、まだ聞いていない声。今日は、そのふたつを、両方とも持ち帰ることになった。
(第11話につづく)
朗読動画(フルバージョン)
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