四日ぶんの夜更かしを顔に貼りつけたまま、僕は「錨」の戸を開けた。
夕方の早い時間で、客はいなかった。ミドリさんはカウンターの中で豆を量っていた。この人の手つきは、量っているというより、豆のほうが勝手に並んでいくのを見届けているように見える。

「今日は、瓶」
うなずいた。栓が抜ける音がして、僕は最初の一口を飲んだ。喉のいちばん奥のところが、少し痛いくらいに冷えた。
「訊きたいことがあるんだけど」
「どうぞ」
「たとえばの話」と僕は言った。「死んだ人が、書き残していったものがあるとする。それを、遺された人に渡すかどうかを、他人が決めなきゃいけないとする。何を基準にすると思う」
ミドリさんは豆を量り終えて、袋の口を折った。
「たとえばの話ね」
「たとえばの話」
「あなたが決めるの」
「決めることになった」
彼女は袋を棚に戻して、こちらを向いた。それから、僕の話とは関係のないところから始めた。
「うちの祖母が死んだとき、文箱がひとつ出てきたの。手紙が入ってた。ずいぶん昔の、束になったやつ」
「読んだ」
「母が、読まずに全部お棺に入れた」ミドリさんは布巾を畳んだ。「わたし、そのとき二十歳くらいで、ひどいことをすると思った。読んでから決めればいいのに、って」
「今は」
「今は、あれは正しかったと思ってる」彼女は畳んだ布巾を、カウンターの決まった位置に置いた。「読まないで入れたんじゃなくて、読まないと決めて入れたのよ。あれは、渡す物じゃなくて、お墓に入れる物だった。母には最初から分かってたのね」

渡す言葉と、墓に入れる言葉。
その二つが最初から別のものだとすれば、僕がやるべきなのは仕分けではなく、見分けるということになる。仕分けは基準がいる。見分けるのに要るのは、たぶん別のものだ。
「その二つ、どうやって見分けるの」
「さあ」とミドリさんは言った。あっさりしていた。「うちは喫茶店だから」
僕は少し笑って、瓶を持ち上げ、空になっているのに気づいて置いた。
自分でも考えてはいた。四晩かけて考えて、ひとつだけ、形になりかけている案がある。生きているうちに渡すつもりがあったと思えるものだけを渡す、という線だ。手紙の宛名みたいなものが文のどこかに残っているなら、それは渡す側にする。
「それ、どうやって分かるの」とミドリさんが言った。僕が声に出していたらしい。「渡すつもりがあったかどうかなんて、死んだ人にしか分からないでしょう」
「分からない」
「でしょう」
「ただ」と僕は言った。「質問だけは、少し違う気がする」
「質問」
「報告は、返事が要らない。ひとりでも書ける。でも質問を書いた人は、答えを待ってる」。話しながら、自分でも輪郭が見えてきた。「答えを待ってる文章は、宛先のほうを向いてる。向いてる先が生きている人なら、それは渡すほうじゃないかと思う」
ミドリさんは、二本目の栓を抜いていた。僕は頼んでいない。
「二杯目、めずらしいわね」
「頼んでない」
「顔が頼んでた」
「そんなに出てる」
「出てるっていうか」ミドリさんは栓抜きを引き出しに戻した。「四日ぶん、いっぺんに出てる」
父のことを思い出したのは、そのときだった。
父は測量の仕事を四十年やった人で、家の中でもよく何かを測っていた。大げさな道具を持ち出すわけではない。台所の棚が水平かどうかを、水を半分入れたコップ一つで確かめるような測り方だった。母が「傾いてたって、皿は落ちないわよ」と言うと、父は「落ちてからじゃ遅い」と言った。それだけ言って、あとは黙って棚の脚に厚紙を噛ませていた。
あの人が何かを言葉で渡してくれた記憶は、僕にはほとんどない。渡されるのはいつも、数えられるもののほうだった。棚の水平。自転車の空気圧。乗り換えに要る三分。
そういう人の引き出しに、言葉が入っているとは思えなかった。入っていないほうに賭けているから、開けずに済ませてこられたのかもしれない。
壁の錨のほうを見た。錆びた小さな錨で、何に使うものなのかは、ミドリさん自身もよく知らないらしい。使い道の分からないものを、ずっと飾っておくのも悪くないでしょ、といつだったか言われたことがある。今日はその言葉が、少し違うふうに聞こえた。使い道の分からない言葉を、消さずに置いておく仕事も、たぶんこの世にはある。

「ひとつ訊いていい」とミドリさんが言った。
「どうぞ」
「それで、あなたのお父さんの引き出しは、どっちなの」
僕は瓶に伸ばしかけた手を止めた。
たとえばの話をしていたはずだった。他人の二十年について、他人の家の文箱について、僕は基準の話をしていた。それなのにこの人は、いつも同じところに石を置く。置くというより、僕が最初からそこに置いていったものを、指さすだけなのかもしれない。
上着の内ポケットの鍵は、春からずっと持ち歩いたせいで、もう金属の冷たさをしていなかった。人肌になったものは、鍵の顔をしなくなる。

「わからない」と僕は言った。「渡す相手が、もういない」
「あら」とミドリさんは言った。「渡す相手は、あなたでしょう」










