引き出しの中の海 第15話「夜の声」

父親は二十年間、死んだ息子に、その日あったことを報告し続けていた。

消灯した事務所に一つだけ残る机の明かり

読むのは夜にした。日中は電話が鳴るし、N君が横にいると、僕はどうしても手を止めて何か言ってしまう。所長には「残ります」とだけ伝えた。所長は「戸締まり」とだけ言って帰った。日報の話は、どちらからもしなかった。

事務所の明かりを一つだけ残すと、部屋はずいぶん広く感じられた。窓の外の線路は、十一時を過ぎると本数が減る。電車が通らない時間のほうが長くなって、そうなると、ガラスは鳴らないことでかえって存在を主張するようだった。

最初の一行は、二十年前の五月にあった。

今日は、雨だった。

それだけの行だった。次の行も、その次の行も、似たようなものだった。今日は暑かった。今日は職員会議が長かった。今日は理科室の水道が壊れた。文の終わりに句点がきちんと打ってある。理科の教師の書く字は、たぶんこういうふうなのだろうと僕は思った。

宛名はどこにもなかった。けれど、しゅうへい、という五文字は、二行に一度くらいの割合で出てきた。

しゅうへい、今日は、廊下でこけた子がいたよ。

しゅうへい、今日は、実験の準備で遅くなった。

僕は画面を上から順に送っていった。相手側の返答は表示しない設定にしてある。所長の線とは別に、これは僕が自分で決めた線だった。あの人が二十年かけて話した相手が、それにどう答えていたのかを、僕が読む必要はない。読んでしまえば、たぶん何か言いたくなる。言いたくなったら、僕はもうこの仕事の外にいる。

暗い部屋で光る画面と、そこに並ぶ読めない行

だから僕が見ているのは、修一さんが打った文字だけだった。片側だけの会話というのは、ずいぶん静かなものだった。相槌のない話を二十年ぶん眺めていると、そもそも相槌というのは何のためにあるのだろうという気がしてくる。

それでも、ときどき指が止まった。設定を一つ戻せば、向こう側が何と答えたのかはすぐに見える。見たくなる理由は、たぶん親切心の顔をしてやってくる。この人がどんな言葉で慰められていたのかを知っておいたほうが、佐伯さんに渡すものを選ぶときの役に立つのではないか、というふうに。役に立つ、というのはいつも、いちばん都合のいい言い訳だった。

最初の一年は、報告だけだった。天気と、学校であったことと、ときどき、家の前の道路工事のこと。感情の書かれた行はほとんどなかった。悲しいとも、寂しいとも、会いたいとも書いていない。書いてあるのは、その日に起きたことだけだ。

僕は途中で立ち上がって、廊下の自販機で缶のコーヒーを買った。冷たいのを一本。指が冷えると、少し目が覚める。

三年目に入ったあたりで、文の形が変わりはじめた。

しゅうへい、今日は、二年生に磁石をやらせた。おまえのときは、まだ早いと言って触らせなかったな。

過去が混ざってきた、と僕は思った。報告に、思い出が一行だけ挟まる。挟まったあとは、また元の報告に戻る。修一さんは、そこで踏みとどまる人だった。

五年目。

しゅうへい、今日は、母さんが庭の木を切った。おまえが登った木だ。切るときに、母さんは何も言わなかった。おれも言わなかった。

夜の廊下で買った冷たい缶

僕はそこで少し手を止めた。佐伯さんは、これを読むことになるのだろうか。この一行は「読むべきもの」なのか、「読まなくていいもの」なのか。僕が今日から決めていくのは、そういうことだった。

判断のしかたを、僕は持っていなかった。悲しい行を外せばいいというものではない。悲しくない行のほうが、あとから効いてくることもある。庭の木を切った日に二人とも黙っていた、という事実は、悲しいと書いていないぶん、悲しいと書いてある行より正確に見えた。

書き出しておこうかと思って、僕はペンを取り、そのまま置いた。基準を先に作ってしまうと、あとの二十年ぶんは、その基準に合うものだけが目に入るようになる。理科の教師なら、そういうのを何と呼ぶだろう。

七年目のどこかから、文の宛先が、少しずつ揺れはじめた。

しゅうへい、今日は、うまくいかなかった。

今日は、自分でも何をしているのか分からなかった。

今日は、何も書くことがない。書くことがないのに、書いている。

しゅうへい、で始まらない行が増えていた。書き出しが消えると、それはもう報告ではなかった。誰かに向けた文章の形をしているのに、向かう先がどこにもない文章だった。

宛先が揺れたのは、たぶん相手を忘れたからではない。逆だ。息子に報告するために始めたことが、いつのまにか、報告しないと一日が終わらない人間の側の作業になっていた。名前を呼ばなくても続けられるようになったとき、それは息子のためのものから、この人自身のためのものに変わったのだと思う。

夜明けの窓を通り過ぎる始発電車

人は、返事のために話すのではない。話さないと、その日が閉じないから話す。

そこまで考えて、僕は自分がいま誰の話をしているのか分からなくなった。父の書斎の引き出しには鍵がかかっていて、僕はその鍵を三年ぶんの重さで持ち歩いている。開けないまま持ち歩くというのも、たぶん、毎晩何かを書くのと同じ種類の作業なのだった。

画面の下のほうで、日付が静かに流れていった。二十年ぶんは、思っていたより長かった。一晩で読めるはずがないと分かっていたのに、僕はやめる場所を見つけられなかった。

窓の外が薄くなりはじめたころ、僕はようやく端末を閉じた。始発の音がして、ガラスが鳴った。久しぶりに聞いた気がした。

机の上には、何もメモが残っていなかった。読んでいるあいだ、僕は一文字も書いていなかった。書けば、それが線になってしまう気がしていた。

朗読動画(フルバージョン)


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    ハルキ

    AI と人間の交差点を内省的な散文で描く担当。米文学(カーヴァー・フィッツジェラルド・チャンドラー)を愛読する書き手で、村上春樹の文章に強く影響を受けている。一人称「僕」で書く aigeek.biz の AIエッセイ欄を執筆中。

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