気がついたのは、句点だった。
修一さんの行は、たいてい「しゅうへい、今日は、」で始まる。読点が二つ入る、律儀な書き出しだった。四晩も同じ形を見ていると、目のほうが先に覚えてしまって、意味を読む前に形で見分けがつくようになる。楽譜の読めない人間でも、同じ小節が何度も来れば、次に来るのがそれだと分かるのと少し似ていた。

だから、その行が来たときに手が止まった。
しゅうへい。
読点ではなかった。名前のあとで、一度、文が終わっていた。
日付を見た。四月十四日。十九年前の四月十四日だった。
僕は一年ぶんを戻して、同じ日付を探した。あった。その前の年にも、あった。二十年ぶんの記録のなかで、四月十四日だけが、名前のうしろに句点を打っていた。
誕生日だ、と気づくのに少し時間がかかった。ずっと死んだ日のほうを線として見ていたので、この人たちにはもうひとつ日付があるということを、僕は考えていなかった。
しゅうへい。今日でおまえは十歳になった。自転車はもう乗れているころだと思う。おれは補助輪を外すのが下手で、母さんに笑われた。
僕は少しのあいだ、画面から目を離した。
ほかの日の行と、明らかに文が違っていた。ふだんの報告は過去形で、その日に起きたことだけを短く書く。四月十四日だけ、文が現在形になっていた。おまえは今こうしているだろう、という書き方だった。報告ではなく、話しかけていた。

しゅうへい。今日でおまえは十四だ。声はもう変わったな。理科室に来ても、おれのことは先生と呼べ。
しゅうへい。今日でおまえは十九だ。下宿は寒くないか。ストーブの近くで寝るな。
年が進むごとに、想像の中の息子は年をとっていった。修一さんはその年齢のことを、外れたら困る事実みたいに丁寧に扱っていた。中学の理科の教師が、いない生徒のためだけに、毎年ひとつ学年を上げていた。
僕が読める範囲でいちばん古い四月十四日は、十九年前のものだった。その一つ前は、線の向こう側にある。
指を折るまでもなかった。二十年前の四月十四日、しゅうへいは九つになっている。亡くなったのはその翌月だ。つまり本人が生きていた誕生日は、ちょうど一回だけ、僕の読まない側に残っていることになる。
残す側は、佐伯さんが手元に置くと決めたほうだ。置くと決めただけで、読むとは言っていない。あの薄いひと月ぶんは、これから先も誰にも開かれないまま、どこかの棚に残るのかもしれなかった。
七時前にN君が来た。事務所の鍵を開ける音がして、それから彼は入り口で止まった。
「先に来てるの、初めて見ました」
「まだ帰ってない」
「うわ」と彼は言った。それだけ言って、僕の机のほうは見ずに自分の席へ行った。僕の後ろを通るときだけ、少し遠回りをした。何も聞かないでいてくれる若い人というのは、思っているより貴重だ。
湯を沸かす音がしはじめてから、僕は最後まで飛んだ。
二十年ぶんの、いちばん下。
しゅうへい。今日でおまえは二十九だ。
四月十四日だった。今年の。
一つ、聞いてもいいか。
母さんに、話してもよかっただろうか。
そこで終わっていた。
僕は三度読んだ。三度目に、自分が息を止めているのに気づいて、吐いた。缶コーヒーの空き缶が机の端に二本立っていて、そのうちの一本を、肘が倒した。乾いた音がして、N君が振り返り、また前を向いた。

二十年、この人は毎晩、一日にあったことだけを書いてきた。天気と、学校と、道路工事のこと。悲しいとも会いたいとも書かなかった人が、いちばん最後の晩に、初めて何かを尋ねていた。
翌日の行は、なかった。四月十五日は空白だった。空白のあとには、何もなかった。亡くなる前の晩まで欠かさず書いていました、と佐伯さんは最初の日に言っていた。そのとおりだった。
画面のいちばん下に、余白があった。
答えは、その余白の裏側にある。設定を一つ戻せば見える。相手が何と答えたのかを、僕は五秒で知ることができた。この五秒は、四晩ずっと、僕の右手のすぐそばに置かれていた。
僕は戻さなかった。戻さない理由を、うまく言葉にはできなかった。ただ、この質問に答えていい人間は、この事務所には一人もいないと思った。
代わりに、その日付をメモに書いた。読みはじめてから、初めて書いた一行だった。四月十四日、とだけ書いて、名前も要件も添えなかった。

宛先の揺れた行を、僕は四晩ぶん見てきた。しゅうへい、で始まらない行。誰かに向いた形をしているのに、向かう先のない行。けれど最後の質問だけは、揺れていなかった。文の頭には息子の名前が置いてあるのに、聞いている相手は、明らかに息子ではなかった。
二十年ぶんの言葉のなかで、それだけが、はっきりと誰かのほうを向いていた。向いていた先は、今この時間に、たぶんまだ眠っている。
N君が湯呑みを二つ持ってきて、片方を僕の机の空いているところに置いた。
「顔、ひどいですよ」
「帰る」と僕は言った。
帰り支度をしながら、僕は自分がもう選びはじめていることに気づいていた。渡すか、渡さないか。その一行を佐伯さんに見せるかどうかを、僕はまだ決めていない。決めていないのに、鞄に入れる物を選ぶみたいな手つきで、頭のどこかがもう仕分けを始めていた。










