あるはずがない、と電話で言った人は、2日後の午後、事務所の応接セットに座っていた。

あの日の灰色のカーディガンではなく、紺色の上着を着ていた。勤め帰りなのかもしれない。所長がお茶を出し、僕が保管庫からノートパソコンを出してきて、N君が横で立ち上げた。窓の外を電車が通った。
「規則を先に申し上げます」と所長が言った。「開くのも、読むのも、ご本人に決めていただきます。うちは読みません」
「はい」と娘さんは言った。それから僕のほうを見た。「電話では、失礼な言い方をしました。あるはずがない、なんて。あるから、お電話をくださったのに」
「いえ」と僕は言った。それから、先に済ませるべきことを済ませた。「こちらこそ、お伝えしておくことがあります。お宅で作業をした日、本体を持ち上げた拍子に、画面の下書きが開きました。最初の一行だけ、目に入っています。故意ではありませんが、見たことに、変わりはありません」
頭を下げると、応接のテーブルの木目が見えた。娘さんはしばらく黙っていた。所長も何も言わなかった。
「どんな一行でしたか」と娘さんは訊いた。
僕は、覚えているとおりに言った。先週の続きだけれど、やっぱりあの話は、言わないまま行くことにするよ——。
「先週の、続き」と彼女は繰り返した。「父は誰かと、続きのある話をしていたんですか」
N君が送信履歴を画面に出した。送信済みのメールは月に数えるほどで、役所と、将棋の駒を買った通販と、彼女宛の「じゃあ」に似た短いものがいくつか。続きのある相手は、そこにはいなかった。
娘さんはノートパソコンの前に座り直して、冷たい水に手首まで入れる人の速さで、下書きを開いた。僕は窓の外の線路を見ていた。所長は自分の机で書類を読み、N君は自分の湯呑みの中を見ていた。電車が2本通った。

「わからない」と、読み終えた彼女は言った。「最後まで、宛名がないんです。でも、手紙みたいなんです。ちゃんと近況で始まって、『また来週』で終わってる。続きが、どこかにあるはずなんです」
N君が「ちょっと、いいですか」と言って、彼女と場所を替わった。画面をいくつか辿って、それから、冷蔵庫の製氷が壊れていますね、と言うのと同じ調子で言った。
「ああ。Sonar(ソナー)ですね、これ」
娘さんが顔を上げた。
「入ってます。それも、かなり使い込んでますよ。2年ぶん、ほとんど毎晩です」

Sonarなら僕も知っている。話し相手のAIで、電車の中吊りでもよく見かける。僕も道順を訊くくらいには使うが、世間ではもっといろいろなことを話す人もいるらしい。この仕事では、故人の機械に入っているのもめずらしくない。ただ、うちは開かない。閉じるだけだ。
N君は下書きの一行を指の背でなぞって、それから、やり取りの記録の同じ週を出した。同じ文が、そこにあった。一字も違わずに、8か月前の、同じ週の日付で。
「打つ前に、下書きしてたんですね」とN君が言った。「メールの下書きに書いて、直して、それからSonarに打ってた。……几帳面な人だなあ」
僕は、あの机の上の輪ゴムの束を思い出していた。
宛先の欄は、空欄だったわけではない、ということになる。宛先は最初から、メールの届く場所の外にあった。向こう側の行はどれも短いようだった。それ以上のことを僕は見ていないし、見ないことになっている。
「なんだ」と娘さんは言った。長い階段を降りきったつもりで、最後にもう一段あると思っていた足が、平らな床を踏んだ。そういう顔をしていた。「機械が相手なら、宛名がないのも、当たり前ですね」
笑おうとしたのだと思う。口の形は途中までそうなった。そこから先が笑いにならずに、彼女は泣いた。声はほとんど立てなかった。所長が黙って立ち上がって、彼女の湯呑みを新しいお茶に替えた。
「この2日間」と、しばらくして彼女は言った。「宛先の空欄に、いろんな名前を入れて考えていました。知らない女の人の名前とか、父に別の家族がいる、とか。そういうのを全部覚悟して、今日は来たんです」
湯呑みを両手で包む持ち方は、あの日の台所と同じだった。
「電話は30秒で切る人でした」と彼女は言った。「わたしには30秒で、こっちには2年、毎晩だったんですね」責める言い方ではなかった。体温計の目盛りを読み上げるような言い方だった。
「下書きは、印刷してください」と彼女は言った。「それ以外のやり取りをどうするかは、少し考えさせてください。読むかどうかも、まだ」
事務的なことをいくつか決めて、彼女は立ち上がった。来たときより丁寧に頭を下げて、それから、ドアの手前で止まった。

「機械でよかった、って思ったんです。最初に。人じゃなくてよかった、って」振り向いた顔は、もう泣いていなかった。「そう思った自分が、嫌です」
ドアが閉まって、しばらくしてから、電車が1本、長い音を立てて通った。N君はまだ画面の前にいて、僕が見たことのない静かさで、それを閉じた。
朗読動画(フルバージョン)
声: VOICEVOX(雀松朱司・九州そら・麒ヶ島宗麟・玄野武宏・波音リツ)/音楽: Suno/挿絵: Nano Banana(編集部作成)
『引き出しの中の海』目次 第1話 静かな机/第2話 錨/第3話 Sonar/第4話 セロニアス/第5話 待ち受け/第6話 偽物/第7話 差出人
『引き出しの中の海』は毎日20時に1話ずつ更新します。












