死んだ人の机は、生きている人の机より静かだ。
この仕事を始めて2年になるが、最初に覚えたのはそのことだった。物が少ないとか、埃をかぶっているとか、そういう話ではない。物理的にはむしろ賑やかな机だってある。書類が積まれ、ペン立てには使いかけのペンが12本も差してあり、引き出しは満員電車みたいになっている。それでも静かなのだ。持ち主が二度と戻らないと決まった机は、鳴るはずの音を全部あきらめた楽器に似ている。
僕の仕事は、その机を閉じることだ。
正式には「デジタル遺品整理」という名前がついている。亡くなった人のパソコンや携帯電話を開けて、必要なものを遺族に渡し、要らないものを消し、解約されないまま毎月お金だけ引き落としていく契約を止める。有田整理事務所というのがうちの屋号で、所長の有田さんと、僕と、出入りのN君。それで全部だ。駅前の雑居ビルの2階にあって、窓からは私鉄の線路が見える。電車が通るたびに、書類棚のガラスがすこしだけ鳴る。

その日の現場は、隣町の古い戸建てだった。亡くなったのは72歳の男性で、依頼者は娘さんだった。四十代の半ばくらいの、きちんとした灰色のカーディガンを着た人で、玄関で靴を揃えながら「散らかっていてすみません」と言った。散らかってなどいなかった。廊下には新聞の束がきちんと紐で縛られて置いてあり、その結び目まで几帳面だった。
「パソコンの中身は、全部消してください」と娘さんは言った。「見ないで、そのまま」
よくある依頼だ。というより、いちばん多い依頼だ。人は死んだ家族の言葉を読みたいと思う。それと同じくらいの強さで、読みたくないと思う。ふたつの気持ちは矛盾しないで、同じ胸のなかに並んで住んでいる。うちの事務所はそのどちらにも味方をしない。有田所長の言い方を借りれば「うちは読まない。閉じるだけ」ということになる。
作業の前に、台所でお茶を一杯だけご馳走になった。そういう決まりがあるわけではないが、依頼者は誰かに少しだけ故人の話をしてから、僕らを二階に上げたがるものだ。娘さんは湯呑みを両手で包むように持って、父親は無口な人だった、と言った。定年まで水道局に勤めて、退職してからは将棋と庭いじりで、電話をかけても用件が済むと「じゃあ」と言って切ってしまう。「三十秒よりも長く話した記憶が、ここ十年で何回あったかしら」と娘さんは言った。責めるような口調ではなかった。棚の奥から出てきた古い計量カップの目盛りを読むような、そういう言い方だった。
「だから、余計に見たくないんです」と彼女は言った。「あの人が誰かに長い文章を書いていたとしても、書いていなかったとしても、どっちにしても、たぶん少し傷つくから」
僕は頷いた。この仕事で頷く回数は、書店員だった頃の3倍くらいある。
書斎は二階の北側にあった。六畳の和室に絨毯を敷いて、洋間ふうに使っている部屋だった。本棚には園芸の本と将棋の定跡書が並び、日に焼けた背表紙の色で、どの棚が南向きの窓に近いかが分かった。窓際に机がひとつ。机の上には老眼鏡と、輪ゴムをまとめた小さな束が置いてあった。几帳面な人の机には、どういうわけか必ず輪ゴムの束がある。統計を取ったわけではないが、これまでの現場でいえば打率は相当に高い。輪ゴムというのは、几帳面さが最後に流れ着く港なのかもしれない。

N君がノートパソコンを開けて、ロックの解除にかかった。彼は27歳で、こういう作業のあいだだけ別人みたいに静かになる。ふだんは昼飯のカレーの辛さについて15分は喋れる男だ。
「開きました」とN君が言った。「うわ、きれいに使ってますね。デスクトップにファイルが4つしかない」
僕は手順どおりに目録を作りはじめた。写真のフォルダ、住所録、年金関係の書類、それから将棋のソフト。消す前に、遺族に渡すべきものがないかを形式的に確認する。中身は読まない。ファイルの名前と数だけを見る。人の手紙を裏返して、切手と消印だけを調べるようなものだ。
メールの画面を開いたとき、送信箱の下に「下書き 1」という表示があるのに気づいた。

未送信のメールが1通。日付は8か月前。宛先は空欄で、件名も空欄だった。
「娘さんに確認だな」と僕は言った。渡すべきものかもしれないし、消すべきものかもしれない。それを決めるのは僕らではない。階下に降りようとして、ノートパソコンを持ち上げた拍子に、画面の下書きが開いた。トラックパッドにどこかが触れたのだと思う。弁解するとすれば、その程度の弁解しかない。
読まない、が事務所の規則だ。僕はその規則を尊重しているし、規則というものが人を守るためにあることも、この2年でよく分かっている。
でも、目は僕に断ってから動くわけではなかった。
最初の一行だけが、そこにあった。
——先週の続きだけれど、やっぱりあの話は、言わないまま行くことにするよ。
階段の下から、娘さんが、そろそろお昼にしませんか、と言う声がした。僕は「すぐ降ります」と答えた。自分の声が、さっきより少しだけ遠くで鳴っているように聞こえた。
朗読動画(フルバージョン)
声: VOICEVOX(雀松朱司・九州そら・麒ヶ島宗麟・玄野武宏・波音リツ)/音楽: Suno/挿絵: Nano Banana(編集部作成)
『引き出しの中の海』目次 第1話 静かな机/第2話 錨/第3話 Sonar/第4話 セロニアス/第5話 待ち受け/第6話 偽物/第7話 差出人
『引き出しの中の海』は毎日20時に1話ずつ更新します。












