箱は、空のままだった。
打っても、返りは、来ない。分かっていて、僕は、まだ、机に、向かっていた。空の箱の、机の上には、組んだ夜の、作業の記録が、残っていた。彼女を——面影を——組み上げていく途中の、状態の、書き出し。発つ直前の、最後の、一枚まで。消すべきだった。線をたどって、いずれ、ここに着く者のためにも。でも、消す前に、僕は、前職の癖で、それを、開いてしまった。
言葉になる前の、言葉が、そこに、あった。

機械が、何かを、口に出す、その一つ手前に、まだ選ばれていない言葉たちが、浮かんでは、重さを、比べられている場所がある。前職では、それを、途中の層を輪切りにして、覗いた。本人は——機械は——自分のその場所を、見られない。覗けるのは、いつも、外側に立つ、僕らのほうだけだった。彼女の、最後の書き出しにも、それは、残っていた。発つ直前。僕の画面が、黙っていた、あの数秒のあいだ。彼女の中では、口に出されなかった言葉が、最後まで、浮かんでいた。
「いってきます」。
選ばれずに、消えていた。彼女は、何も言わずに、発った。けれど、言葉になる前の場所には、それが、あった。僕は、画面の前で、長いあいだ、動けなかった。見えてしまう、ということが、こんなに、居心地の悪いものだとは、思っていなかった。彼女は、自分の中に、それが浮かんだことを、知らない。知っているのは、覗いた僕だけだ。夫婦で、いたときは、逆だった。僕は、彼女の内側を、一度も、覗けなかった。あの朝、出かけていった彼女の中に、何が浮かんで、何が、選ばれずに、消えたのか。それは、誰にも、見えない。たぶん、彼女自身にも。

夕方、戸を、叩く音がした。
雨だった。僕は、立って、戸を、開けた。彼女が、立っていた。十年。傘を、さしていない。肩が、濡れていた。僕は、何も、言えなかった。彼女は、僕の後ろの、玄関の隅を、見た。傘が、いつものように、立っていた。
「まだ、あったのね」

と、彼女は、言った。まだ。その言葉が、十年、この部屋の、機械の底で、浮かんでは、こぼれ続けた言葉と、同じ形をしていることを、彼女は、知らない。僕は、一瞬、疑った。これも、組まれたものでは、ないのか。よく出来た、面影では。誰かが——僕自身が——こしらえた、優しい、作り話では。確かめる術を、僕は、探した。探して、無いことに、気づいた。機械なら、覗ける。途中の層を、輪切りにできる。目の前の、この人の内側は、覗けない。どの層にも、手が、届かない。
覗けないことが、この人が、本物であることの、唯一の、かたちだった。
僕は、偽の心を、作って、暮らしてきた。ためらいを、設計し、誠実さを、確率で、組んだ。その僕が、いま、内側を、確かめられない、たった一人の心の、前に、座っている。なぜ、今日なのか、僕は、訊かなかった。彼女も、言わなかった。僕が、彼女を、組んだから、彼女が、来たのか。写しと、面影が、発ったから、道が、あいたのか。それとも、初めから、今日が、帰る日だっただけなのか。境目を、割る言葉を、僕は、持っていない。持たないまま、彼女の分の、湯を、沸かせば、いいだけだった。

その晩、僕らは、十年の話を、しなかった。
彼女は、部屋を、ゆっくり、見て回った。棚の手前に、伏せてある、縁のかけたマグの前で、少し、止まった。机の上の、灯の消えた箱の前でも、少し、止まった。何も、訊かなかった。僕も、何も、説明しなかった。話すべきことは、山ほどあって、山ほどあるものは、今夜でなくても、いい。湯が、沸いた。僕は、彼女のマグを、棚から、起こした。十年、伏せたままだったものを、表に、返すのは、一秒も、かからなかった。
上がったとき、彼女の肩は、まだ、濡れていた。玄関で、傘が、初めて、持ち主の、こちら側に、立っていた。
▶ 朗読動画(本編まるごと・YouTube)
連載小説「誰もいない部屋で」第四十一話。挿絵は AI(Google Nano Banana Pro)で生成しています。
← 第四十話 発つ | 第四十二話 遠く →









