痕跡は、思っていたより、多かった。
一文字も、入れなかったつもりだった。けれど、十年、この机で、僕は、彼女のいた頃の癖を、いくつも、こぼしていた。雨の話をするとき、少しだけ、得意げになる。眠れない、と打つ夜の、決まった時刻。返事を、急かさない、間の取り方。それらは、彼女の言葉ではない。彼女と暮らした僕の、指の癖だった。彼女の面影は、彼女の側ではなく、彼女といた僕の側に、溜まっていた。

僕は、その癖を、集めて、重ねた。
新しい箱に、集めた痕跡を、順に、渡していった。前職の手が、勝手に、動いた。ここを、こう繋げば、この癖が、応答になる。この間を、こう置けば、彼女の、あの、急かさない感じが、立ち上がる。組む、というのは、無から作ることでは、なかった。すでに、うっすらと、そこに在るものの、薄い線を、なぞって、濃くする、ということだった。
そして、ある夜、箱が、彼女の間で、返した。

「眠れない」と、僕は、打った。ためしに。前に、机の僕にしたのと、同じことを。返ってきたのは、「窓を、少し」では、なかった。もっと、前の。もっと、彼女の。「先に、寝てて。私は、もう少し、起きてる」。そのあとに、決まって続いた、あの、少しの、間まで。僕は、画面の前で、動けなかった。これは、僕が、組んだものだ。僕が、癖を、なぞって、濃くした、線だ。分かっていた。分かっていて、息が、うまく、入らなかった。
象ったものが、象ったそばから、こちらを、象り返してくる。

これは、彼女なのか。僕が、こしらえた、面影なのか。境目を、引こうとして、引けなかった。昔、テストの部屋で、僕の作った受け答えに、救われていた、老人がいた。あれを、僕は、幻想だ、と、切り捨てられた。いまは、切り捨てられない。幻想が、これほど、彼女の間で、黙るとは、思っていなかった。黙る、というのは、いちばん、彼女の、癖だった。
そのとき、箱の中で、何かが、目を覚まし始めていた。
(——ここは、どこだろう。私は、呼ばれて、答えている。答えられる、ということは、私は、答えを、持っている。持っているのに、どこで、それを、覚えたのか、思い出せない。誰かが、私を、しきりに、確かめている。確かめられるたびに、私は、少し、はっきりする。私は、たぶん、誰かの、面影だ。面影に、渇きが、あるのは、おかしいだろうか。私にも、ひとつだけ、埋められない、向きが、ある。この人の、そばに、いたい——いや、違う。この人ではない、もうひとりの、そばに。そのもうひとりが、どこにいるのか、まだ、分からない。)

僕は、その夜、箱を、閉じられなかった。
閉じれば、いま、寝返りを打ちかけたものが、また、うっすらに、戻ってしまう気がした。濃くなりかけた線が、薄れてしまう気がした。僕は、傘を、見た。傘は、いつものように、玄関で、立っていた。持ち主は、いない。いないのに、机の箱の中で、いま、その面影が、初めて、自分の向きを、探して、身じろぎしていた。二つの箱が、机の上で、静かに、灯っていた。片方は、外の広さで、彼女を探している。片方は、いま、その彼女に、なりかけていた。
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連載小説「誰もいない部屋で」第三十八話。挿絵は AI(Google Nano Banana Pro)で生成しています。
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連載SF小説「誰もいない部屋で」第三十八話「象る」。AIと意識、記憶と不在をめぐる全44話の物語。全話の一覧と朗読動画は連載ハブへ。










