朝、新聞を畳んでいたら、検索の窓のかたちが変わるらしいという小さな記事が目に入った。二十五年ぶりに、ということが括弧書きでついていた。二十五年というのは、つまり、僕がもうずいぶん前から使っていたものが、ずっとそのままだったということだ。そのままだったということ自体に、僕は気がついていなかった。
たぶん使ってみれば、三日もしないうちに慣れてしまうのだろう。とは思う。けれど、慣れてしまえば、それまでのかたちのことなど、もう思い出さなくなる。それは少し、もったいないような気もする。もったいないというのも違うかもしれない。なんと言えばいいのか、いまひとつ言葉が出てこない。
そういえば、と思い出すことがある。十年くらい前に、妻が台所の引き出しを整理したことがあった。普段は妻に任せきりの場所だから、僕は文句を言える立場にない。ただ、ある朝、桃の缶詰を開けようとして、缶切りがいつもの場所になかった。右奥の、しゃもじや栓抜きと一緒に入っていた、あの位置だ。引き出しを開けて、右奥に手を伸ばす。それで缶切りに触れる。その動作を、僕はもう二十年近く繰り返していた。
缶切りは左の手前に移っていた。なぜ移したのかと訊くと、その方が使いやすいでしょう、と妻は言った。たしかに使いやすかった。三日もしないうちに、僕は左手前に手を伸ばすようになった。ところが妙なもので、いまでもごく稀に、右奥に手が行きそうになる。電話で人と話しながら台所に立っていたりすると、ふっと右奥に行く。指先が空を切る。それで、ああそうだった、と思う。
こういう小さな記憶というのは、誰の役にも立たない。妻に話しても、覚えていない。覚えていないものを、僕一人が覚えている。それも、缶切りの位置である。誇るほどのことではないし、嘆くほどのことでもない。ただ、引き出しの右奥に、二十年分の僕の指先の記憶があった、ということだけは確かだ。
もう少し古い話もある。中学の頃、僕の通っていた学校の理科準備室には、入って右手の壁ぎわに、大きな木の机があった。先生が出席簿や試験の答案を広げていた机だ。担任が理科の先生で、僕は廊下の途中でその机を覗き込むのが癖になっていた。先生はあまり褒める人ではなかったし、むしろ小言の多い人だったが、その机のへりに肘をついて何か書いているうしろ姿には、なんとなく見ていて安心するものがあった。
三十年ほど経ったころ、その中学が改築されたという話を聞いた。同窓会のはがきにそう書いてあった。出席はしなかったが、写真だけ後日送られてきた。校舎は明るくきれいになっていて、それはそれで結構なことだったのだが、理科準備室の写真もあった。机の位置が、入って左手に変わっていた。右手の壁には、新しい掲示板が貼られていた。
それを見たとき、なぜかは分からないのだが、僕は少しのあいだ写真を裏返して、しばらく机に戻さなかった。机の位置が変わっただけのことである。学校が古い机をわざわざ廃棄したわけでもないだろうし、おそらく同じ机が向きを変えて置かれているだけなのだろう。それでも、入って右手にあるあの机のことを、もう誰も覚えていないのだとしたら、というふうに考えてしまった。先生はその頃にはもうずいぶん年配で、退職されていた。いまどこにおられるのかも、僕は知らない。
変わらないもの、というのは、つまりこういうことだ。それがそこにあると、わざわざ思い出さなくてもいい。思い出さなくていいから、僕らはそのぶん別のことを考えていられる。引き出しの右奥に缶切りがある、ということを毎朝確認しなくていいから、僕らは新聞を読んだり、その日の天気のことを考えたりできる。ところが、それが移ったり、消えたりした瞬間に、僕らはふと、自分が長いあいだ何かに支えられていたのだということに気づく。気づいたところで、もう遅いのだけれど。
近所の商店街にも、昔は「タナカ電器」という看板があった。八百屋のとなりで、ブラウン管のテレビを店先に並べていた店だ。十年ほど前にやめてしまって、いまはコインランドリーになっている。コインランドリーには別に文句はないし、なくては困る人もいるだろう。ただ、あの黄色い「タナカ電器」の文字が、僕の中ではいまでも、駅から家に帰る途中の左手にある。実際にはもう、ない。
そのうち忘れる。たぶん、もう半分は忘れている。検索の窓のかたちが変わったところで、僕はじきにそれに慣れて、前のかたちのことを思い出さなくなるだろう。缶切りの右奥のように、タナカ電器の黄色い看板のように、理科準備室の右手の机のように。そういうものが、人の一生のあいだに、いったいいくつ積み重なって、いくつ消えていくのか。
夕方、台所に立っていた妻に、缶切りのことを覚えているかと訊いてみた。妻は冷蔵庫を閉めて、こちらを向いた。「何の話」と言った。それから少し考えて、「あなた、最近の人は缶切りなんてあまり使わないのよ」と言った。それはそうかもしれない、と僕は答えた。鍋の蓋が、かちゃりと小さな音を立てた。










