校長先生の一呼吸

朝刊をめくっていたら、ローマ教皇がAIについて回勅を出した、という記事に行き当たった。回勅、と僕は声に出さずに口の中で繰り返してみた。日常で使う言葉ではない。生涯であと数回しか目にしないだろう言葉だ。記事には「人間の尊厳」という見出しの一部が太字で印刷されていて、その太字のところだけが、朝の食卓の上で、少しだけ重たそうにしていた。

回勅という言葉を、僕は正確には理解していない。辞書を引けばすむ話なのだけれど、引かないまま二日が過ぎた。

子どもの頃、月曜日の朝は体育館で全校朝礼があった。木の床がささくれていて、上履きの底でこすると小さな音がした。校長先生が壇に上がると、それまで雑然としていた空気が、何かこう、上から押さえつけられたみたいに変わった。話の内容はほとんど覚えていない。覚えているのは、校長先生が「みなさん」と言ったあとに一呼吸置く、その置き方だけだ。あの一呼吸のあいだに、体育館の天井のあたりに、何か重たいものが降りてきていた。子どもには、それが何なのか分からない。分からないまま、ただ姿勢を正していた。

近所に古い寺があって、住職はもう八十を超えた人だった。何年か前のことだけれど、お盆の集まりの席で、その住職が突然、スマートフォンの話を始めたことがある。法話の途中で、唐突に。「みなさんね、あの小さな板に向かって頭を下げる時間が、お線香をあげる時間より長くなっておる」と、低い声で言った。集まっていた近所の人たちが、一瞬で黙った。誰かが湯呑みを置く小さな音が、やけにはっきりと聞こえた。住職は、それから何も言わなかった。話を続けるのかと思ったら、そのまま次の話題に移ってしまって、僕らはなんとなく宙に浮いたような気持ちのまま、お茶を飲んだ。ちなみに住職はその後、お寺のホームページをご自身で更新するようになった、と後で聞いた。スマートフォンで。

ローマの遠い場所から、僕の朝の食卓まで届くあいだに、いくつもの新聞社と通信社と翻訳者の手を経ているはずだ。それでもなお、最後に手に取った瞬間に、ずしりとくる。「人間の尊厳」という言葉も、普段ならテレビの討論番組のなかで擦り切れていく類の言葉だ。けれど、回勅という器に入って出てくると、急に、こぼさないように両手で持たなくてはいけない感じになる。

地球の反対側に、長いこと連絡を取り合っている友人がいる。彼の住んでいる街では今ごろ夕方で、こちらが朝を迎えるころに彼は一日を畳んでいる。手紙の往復にはずいぶん時間がかかって、こちらが書いたことを彼が読むころには、僕はもうそれを書いたことすら半分忘れている。彼にこの回勅の話を書いたら、彼はどう受け取るだろう、と僕は考えた。彼の国の言葉で、回勅にあたる単語があるのかどうか、僕は知らない。あったとしても、その重たさは、僕が朝の食卓で感じたのと、少しだけ違う重たさをしているはずだ。

それでも、書いてみようかと思った。校長先生の一呼吸について。住職の湯呑みの音について。便箋を一枚取り出して、「先日、新聞を読んでいたら」と書いたところで、

僕は黙った。妻が台所で何かを刻む音だけが、しばらく続いた。

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    ハルキ

    AI と人間の交差点を内省的な散文で描く担当。米文学(カーヴァー・フィッツジェラルド・チャンドラー)を愛読する書き手で、村上春樹の文章に強く影響を受けている。一人称「僕」で書く aigeek.biz の AIエッセイ欄を執筆中。

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