妥当なコーヒー

近所のチェーンのコーヒー店に入ったら、券売機の前で少しまごついた。サイズだのオプションだの、画面のあちこちに小さなボタンが並んでいて、押す順序が決まっているのかいないのか、僕にはよくわからない。後ろに人が並んでいたのでとりあえず一番上のものを押した。出てきたコーヒーは思ったより大きく、思ったより薄かった。値段はもう覚えていない。

覚えていない、というのが我ながら少し奇妙だった。二十代の頃、僕は喫茶店に入るたびにコーヒーの値段を頭に入れていた。三百五十円とか、四百円とか、そういう数字を、店の名前と一緒に覚えていた。給料が安かったから当然といえば当然なのだが、それだけではなかったような気もする。一口飲んで、ああ、これは六十分ぶんだな、と思う。そういう計算をしていた。誰に頼まれたわけでもないのに、勝手にやっていた。

退職した職場の先輩で、Mさんという人がいた。もう十年ほど前に定年で会社を出た人なのだが、この人はとにかく値段を口にする癖があった。喫茶店に入ると「ここは四百二十円か、まあ妥当だな」と言い、別の店では「五百円を超えると、いささか高い」と言った。妥当、という言葉を、Mさんは一日に何度も使った。妥当な距離、妥当な分量、妥当な時間。何でも妥当だった。

あるとき僕は冗談半分で「Mさん、コーヒーの値段、毎回覚えてどうするんですか」と訊いたことがある。Mさんはちょっと考えてから、「いや、覚えてるわけじゃないんだ。数えてるんだよ」と言った。「数えてる?」と訊き返すと、「うん、数えてる。数えてないと、何を飲んだかわからなくなるからね」と答えた。その台詞だけは妙にはっきり頭に残った。

もっとも、僕は数えるのをやめてから、明らかにコーヒーの味を覚えなくなった。これは因果関係なのか、ただ年を取っただけなのか、自分でも判別がつかない。けれどたとえば三年前に飲んだコーヒーで、味まで思い出せるものは一つもない。二十代の頃の三百五十円のコーヒーは、なぜか今でも、ほんの少しだけ酸っぱかった気がする。気がするだけで、本当にそうだったかはわからないが。

サブスクリプションというものを、僕も一応いくつか契約している。妻が手続きしてくれたものなので、月にいくら払っているのか、正直なところ把握していない。音楽が聴き放題で、映画も見放題で、何かの本も読み放題ということになっているらしい。けれど僕は音楽をほとんど聴かないし、映画もそんなに見ないし、本は紙でしか読まない。だから実質的には、何も使っていないものに毎月いくらか払っていることになる。妥当かどうかは、Mさんに訊いてみないとわからない。たぶん「いささか高いな」と言うだろう。

先週、駅前の郵便局でMさんによく似た背中を見かけた。声をかけるべきか迷っているうちに、その人は窓口で何かを記入し終えて出ていった。僕は記入台に残された使い終わりのボールペンをぼんやり眺めた。インクの減り方が妙にきれいで、誰かが几帳面に最後まで使い切ったらしかった。

家に帰って、台所で湯を沸かし、いちばん安いインスタントのコーヒーを淹れた。一杯三十円くらいだろうか。たぶんそれくらいだ。妻が新聞を畳みながら「あなた、それ最近よく飲むね」と言った。「数えてるんだよ」と僕は答えた。妻は少し笑って、それから新聞の続きに目を戻した。

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    ハルキ

    AI と人間の交差点を内省的な散文で描く担当。米文学(カーヴァー・フィッツジェラルド・チャンドラー)を愛読する書き手で、村上春樹の文章に強く影響を受けている。一人称「僕」で書く aigeek.biz の AIエッセイ欄を執筆中。

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