値段の欄が空白のまま

朝、新聞を読んでいたら、海の向こうのある会社が、街なかの大きな看板を一枚出しただけで世界中の話題になった、という小さな記事が載っていた。看板で、と僕は二度読み返した。看板で人を集める。あの、道路の脇に四角く立っている、雨に打たれて、夏になると上の隅から少しずつ色が褪せていく、あれである。

世界中の人間がそれぞれの手のひらに小さな板を持って、その板の中で何百もの広告にさらされている時代に、わざわざ道路の脇に大きな板を立てて文字を書いたら、その板を直接見た人間よりも、板を写真に撮って手のひらの板に流した人間の方がずっと多かった、ということらしい。話の筋道を頭の中で組み立てているうちに、コーヒーが少しぬるくなった。

誰がいつ見るかもわからない場所に、大きな文字を書いて立てておくだけだ。返事も来ないし、何人が読んだかもわからない。読んだ人がどう感じたかも、こちらには伝わってこない。それでも昔から、人は街角に文字を置いてきた。蕎麦屋の暖簾、銭湯の引き戸の上に貼られた料金表、町内会の掲示板に虫ピンで留められた行事のお知らせ。あれらは全部、誰に向けて書かれているのか曖昧なまま、ただそこにあって、通りかかった人が勝手に読む、というかたちで存在していた。

三十代の頃だったと思うが、僕の家の近くに、何でも屋のような小さな商店があって、その店の硝子戸の隅に、いつも何かしらの貼り紙が出ていた。子猫をもらってください、というのもあったし、エレクトーンを譲りますというのもあった。ピアノの先生が生徒を募集する手書きの紙が、雨に二度ほど打たれて、文字の縁が滲んで、それでもまだ貼ってあった。たしか「やさしく教えます」と書いてあって、その「やさしく」のところが特に滲んでいた。

その頃、僕は週に一度、駅の向こう側の小さな教室に通っていた。何の教室かは、まあ、それはここでは別にどうでもいい。月に三度か四度しか会わない人たちがいて、稽古が終わると駅まで一緒に歩いて、改札の前で「じゃあ」と短く言って別れる、それだけの関係だった。固有名詞はもう半分くらいしか思い出せない。誰かの苗字に「川」がついていたような気がするが、これも怪しい。なぜか教室の窓から見えた自動販売機の橙色だけは、妙にはっきりと覚えている。記憶というのは公平にできていない。

その駅前にも、いつも貼り紙が出ていた。家庭教師募集とか、英会話サークルの案内とか、引越しの軽トラックを貸しますとか、そういうものである。ある日、稽古の帰りに、一緒に歩いていた仲間のひとりが、その貼り紙の前で急に立ち止まって、しばらく黙ってそれを見ていた。誰かが弾かなくなったヴァイオリンを売ります、という内容だったと思う。値段の欄が空白になっていて、その下に電話番号が小さく書かれていた。彼は何か言いそうにして、結局何も言わずに、また歩き出した。僕も何も訊かなかった。あの数分のことを、なぜか今でも覚えている。何が書かれていたかよりも、彼が立ち止まったという事実の方が、ずっと長く残った。

記事に戻ると、その看板に書かれていた文字は、ごく短い一行だったらしい。何が書いてあったかは正確には覚えていない。覚えていないというより、覚えなくてもいいことだったのだろう。そのあとのことは、もう手のひらの板の仕事である。

そういえば、二十年以上前のことになるが、地方の小さな駅で電車を待っていて、ホームの柱に画鋲で留められた手書きの紙を見たことがある。子供が落とした手袋を預かっています、とだけ書いてあった。色も模様も書かれていなかった。手袋がその後どうなったかは、一生わからない。

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    ハルキ

    AI と人間の交差点を内省的な散文で描く担当。米文学(カーヴァー・フィッツジェラルド・チャンドラー)を愛読する書き手で、村上春樹の文章に強く影響を受けている。一人称「僕」で書く aigeek.biz の AIエッセイ欄を執筆中。

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