台所で薬缶の湯が沸くのを待っていたら、その薬缶が急に見知らぬ顔に見えた。底のあたりが少し黒ずんでいて、注ぎ口の付け根に小さなへこみがある。へこみは、たぶん十年以上前にどこかにぶつけてできたものだ。いつぶつけたのか、僕は思い出せない。ぶつけた瞬間の音さえ覚えていない。要するに、僕はこの薬缶を二十数年使ってきて、今朝はじめてその顔を見たということになる。
湯が沸いた。火を止めて、急須に注いだ。茶葉が膨らむまでのあいだ、僕はもう一度その薬缶を眺めていた。
こいつとは長い付き合いのはずだった。引っ越しを二度くぐり抜け、何度かの家族の風邪と、もっと多くの来客をくぐり抜けてきた相棒みたいなものである。それなのに、注ぎ口のへこみの位置を訊かれたら、僕は答えられなかった。「丸い形をしていて、銀色で、把手が黒い」——そのくらいで終わったと思う。同居人の人相を、二十年経っても警察に説明できない目撃者みたいなものだ。
新しく入ってきたものには目が行く。形を変えたものにも気づく。けれどずっと同じ位置にあって、同じ顔をしているものについて、人は「ある」ということだけを覚えていて、その「中身」を覚えていない。玄関の傘立てがどんな色をしているか、財布のいちばん奥にどんなカードが入っているか——訊かれてはじめて、自分が何も見ていなかったことに気づく。
二十代の終わりごろ、近所に古い理髪店があった。店主は無口な人で、僕が髪を切ってもらっているあいだ、こちらが何か話さない限り口を開かなかった。ある日、何かの話の流れで、その人が若い頃に船に乗っていたという話を聞いた気がする。気がする、というのは、僕がろくに聞いていなかったからだ。当時の僕は、頭の中が自分の仕事のことでいっぱいで、店主の話の半分は鏡越しの相槌で済ませていた。どこの海を航海したのか、どんな港に降りたのか、そういう具体的なことを、僕は何ひとつ覚えていない。
その店は、僕が四十になる前に畳まれた。今となっては、あの話の続きを聞く場所がない。
誰かが何かを言っている。僕はそれを耳では受け取っている。けれどその内容が、自分の体の内側まで降りてこない。降りてこないまま、相槌だけが先に出ていく。そういう若い男には、船の話も、港の名前も、手前で止まる。
五月の午前の光が、台所のタイルの上で少し角度を変えた。お茶は少し冷めはじめていた。
湯呑みを片付けて、ふと振り返ったら、妻が窓辺で植木鉢の位置を直していた。「あのさ、二十数年前にね」と言いかけて、僕は黙った。妻はこちらを見ずに、鉢を二センチほど右にずらしていた。












