読まないでくださいと言っていた人が、読んでくださいと言った。

佐伯さんが三度目に事務所へ来たのは、理科室を訪ねた日から四日あとの朝だった。約束より二十分早い。階段を上がってくる足音だけで、それが誰なのか分かるようになっていた。
前の晩、僕は迷った末にもう一度電話をかけていた。電話で言うことではないと一度は決めたのに、言わずにいると、そのぶんだけ日ごとに重くなっていった。机の引き出しの内側に、名前が彫ってありました。しゅうへい、と読めました。そう言うと、受話器の向こうで長い息の音がして、それから「明日、伺ってもいいですか」と佐伯さんは言った。
応接に座ると、佐伯さんはいつものように湯呑みを両手で包んだ。まだ何も入っていない湯呑みだった。N君が慌てて湯を沸かしにいく。
「三つ目なんですね」と佐伯さんは言った。
僕も同じことを考えていた、とは言わなかった。同じ言葉が二人の頭に別々に浮かぶのは、たぶん珍しいことではない。
「私の前では一度も言わなかった名前を、機械には毎晩書いて、学校の机には彫っていた。そういう人だったんだと、やっと思えるようになりました」
思えるようになりました、という言い方が少し引っかかった。四日でそこまで行けるものだろうか。けれど、人が何かを飲み込む速さは、外から測れるものではない。
「あの、お願いを変えてもいいでしょうか」
来た、と思った。
「半分だけ消してほしいと言いましたよね。あれ、やめます」
「全部、残されるということでしょうか」
「いえ」佐伯さんは首を振った。「全部は、無理なんです」
そこで一度、言葉が切れた。N君が湯呑みを置いて、気配を消すみたいに自分の席へ戻っていった。

「二十年ぶんを、私が全部読むことはできません。読みはじめたら、たぶん最後まで読みます。読んでしまったら、私はもう、この二十年を今までのようには思い出せなくなります」
「はい」
「だから」と佐伯さんは、湯呑みを持ち上げないまま言った。「あなたが先に読んでください。それで、私が読むべきものだけ、教えてください」
僕は、それは重すぎませんか、と言いかけた。あなたの二十年を、会ったこともない人間が選り分けることになりますよ、と。けれど佐伯さんのほうが先だった。
「重いことを頼んでいるのは、分かっています」
「はい」
「でも、私が全部読んで、私が選ぶこともできるんです。それが、いちばん正しいんだと思います」佐伯さんは湯呑みの縁を親指でなぞった。「ただ、そうしたら私は、選ばなかったほうも全部知っていることになる。知っていて捨てた、という覚え方をすることになります」
僕は黙っていた。
「主人が二十年、私に言わなかったのは、たぶん、私にそういう覚え方をさせたくなかったからです」佐伯さんはそこで初めて湯呑みを持ち上げて、すぐに置いた。「だから、私は主人と同じことをしようと思って。知らないままでいる場所を、少しだけ残しておきたいんです」
窓の外を電車が通って、ガラスが小さく鳴った。佐伯さんは、その音がやむまで待ってから、両手を膝に戻した。
所長の机まで行くのに、僕は廊下で二度足を止めた。
話し終えるあいだ、所長は書類の束を揃えつづけていた。最後の一枚を揃えたところで、それを机に置いた。
「うちは読まない」

「はい」
「読まないから、預けてもらえるんです。二十年ぶんを預かれるのは、読まないと決めているからで、腕がいいからじゃない」
そのとおりだった。僕たちが人の端末に触らせてもらえるのは、中を見ないという一点だけで立っている。線が一本あって、その内側にいるあいだだけ、僕たちは仕事になる。
「分かっています」
「分かっていて、読むと言うんですか」
僕は少しのあいだ、答えを探した。うまい言い方は見つからなかったので、探すのをやめた。
「消すのも、読むのと同じくらい、取り返しがつきません」
所長は何も言わなかった。書類の角を、指で一度そろえ直しただけだった。
「消してくださいと言われたら、僕らは中を見ずに消せます。それは、線の内側です。でも今回は、どこで線を引くかを決めるために、誰かが一度読まないといけない。あの人は自分では読めない。読まずに線を引いたら、それは僕らが勝手に選んだことになります」
沈黙が長かった。所長は湯呑みに手をかけて、持ち上げずに指だけ添えていた。冷めているのが、こちらからでも分かる置き方だった。
「有田さん」と僕は言った。「これは、うちの仕事じゃないんでしょうか」
所長はしばらく黙っていた。それから、湯呑みを持ち上げないまま、こう言った。
「……日報には書かないで」

僕は返事をしなかった。何と言えばいいのか分からなかったし、この人は返事を待っている顔もしていなかった。
日報に書かないというのは、なかったことにしろという意味ではないはずだ。書けば記録になり、記録になれば前例になり、前例になれば次から誰かが同じことをする。この人は次の誰かのために線を守ったまま、今日の一人だけを通そうとしている。断りと許可のあいだに架ける、あの短い橋だ。今度の橋は、いつもより少し長かった。
廊下に出てから、僕は自分がほっとしているのか怖いのか、しばらく分からなかった。許してもらったつもりでいるが、所長は一度も「いい」とは言っていない。書かないで、としか言っていない。責任の置き場所を、この人は僕のほうに静かに寄せたのだった。
席に戻ると、N君が何も聞かずに端末の準備をはじめていた。二十年ぶんの記録の、いちばん古いところに印をつけて、「ここからでいいですか」とだけ聞いた。
僕は鞄の中の実験ノートを、机の引き出しにしまった。返す先のないものが、また一つ増えた。上着の内ポケットには、まだ父の鍵が入っている。
読まなければならない言葉、というものがある。それを読む係が、この世のどこかに一人は要るのだと、その日の僕は思っていた。










