学校というのは、死んだ人の字がいちばん残りやすい場所だった。
夏休みの校舎は、暑いのにどこか冷たかった。廊下のリノリウムに午後の光が長く伸びて、体育館のほうからボールの音が途切れ途切れに届いてくる。理科室の前で待っているあいだ、薬品の匂いと雑巾の匂いと木の匂いが、順番を守るみたいに順ぐりに流れてきた。薬品棚のラベル、掲示物の隅の注意書き、実験の手順を書いた画用紙。あちこちに人の書いた字が貼りついていて、それを書いた人がもういないことを、建物のほうはまるで気にしていないように見えた。

そもそも、これは事務所の仕事ではなかった。
前の日、僕は佐伯さんに電話をかけて、机に残されたままの実験ノートのことを伝えた。持ち帰り忘れたのなら送りますが、と言うと、少しの沈黙のあとで佐伯さんは「それ、学校のものかもしれません」と言った。
「主人の私物なのか、学校の備品なのか、私には分からなくて。返せるものなら、返してしまいたいんです」
奥さんが行かれるのが筋では、と言いかけて、僕は口をつぐんだ。「私はまだ、あそこには行けなくて」と、佐伯さんのほうが先に言ったからだ。
所長に相談すると、書類から目を上げずに「うちの仕事じゃありません」と言った。それから湯呑みを持ち上げて、「明日、午後は空いています」と続けた。断りと許可のあいだに、この人はいつも短い橋を一本だけ架ける。
出てきたのは笠井先生という理科の教師だった。四十代の半ばくらいで、半袖のポロシャツの上に白衣を羽織っただけの格好をしている。夏休みの学校では、白衣は制服というより上着に近いものらしかった。「佐伯先生の。ああ、わざわざすみません」
準備室に通された。天井まである戸棚に、大小のガラス瓶が背の順に並んでいる。標本の箱、丸めた模造紙、流しの脇に伏せられたビーカー。人ひとりが通れるだけの通路の両側に、二十年分か三十年分かの理科が積み上げられていた。

実験ノートを差し出すと、笠井先生は表紙を開いて、指の腹で一枚ずつめくった。「これは先生の私物ですね。学校のノートはもっと薄いんです」と言って、こちらへ返してよこした。返しに来たものが、そのまま手元に戻ってきた。預かり物というのは、案外どこにも返せない。
「佐伯先生は、どんな方でしたか」と僕は聞いた。守秘の線からは、たぶん半歩ぶんはみ出した質問だった。
笠井先生は少し笑って、戸棚のガラスを閉めた。「無口な人でしたよ。職員室でもほとんど喋らない。でもね、実験の前だけは、よく喋る人でした」
「実験の前?」
「授業の前に、必ず一人で通しでやってみるんです。誰もいない理科室で。それで失敗しそうなところを見つけると、そこだけ、こっちが聞いてもいないのに説明してくれるんですよ。ここは、こうすると危ないんです、って」
起きるかもしれないことを、起きる前に一度だけ自分の手で起こしてみる人だったのだと僕は思った。理科というのは、たぶんそういう学問なのだろう。そして起きてしまったことについては、何も言わない人でもあったわけだ。
帰りぎわ、笠井先生が部屋の隅を指した。「この机だけ、ずっと佐伯先生が使っていて。古いから捨てようって話も出たんですけど、あの人が、これでいいですって」
木の実験机だった。天板は薬品の跡で島の形に白く抜けて、角は撫でられ続けた石みたいに丸くなっている。脚の一本に、折り畳んだ厚紙が噛ませてあった。
「引き出し、空にしてあります」と笠井先生が言うので、僕は礼を言って手前に引いた。中は本当に空だった。鉛筆の芯の粉が、隅にほんの少し溜まっているだけだ。
引き出しの内側の、いちばん手前の板に、小さく彫られた字があった。釘か、コンパスの針か、そういうもので何度もなぞって深くした線だった。
しゅうへい、と読めた。

「なんですかね、それ」と笠井先生が横から覗き込んだ。「前からありましたよ。生徒の悪戯じゃないですかね」
「そうですね」と僕は言った。それ以外の言い方を、僕は持っていなかった。
声に出さない。妻の前でも言わない。位牌に手を合わせるときも黙っている。そのかわり毎晩、機械に向かって二十年書き続けて、それでもまだ足りずに、誰も開けない引き出しの内側に、爪で刻むみたいに名前を彫っていた。三つ目の場所だ、と僕は思った。人はどうやら、しまう場所がひとつでは足りないと感じる生き物らしい。
引き出しを戻すとき、僕はできるだけ静かに押した。空の引き出しは軽くて、思ったより遠くまで滑っていった。
帰りの各駅停車で、鞄の中の実験ノートが膝の上を少しずつ滑った。上着の内ポケットには父の鍵がある。父がどこかに何かを彫ったかどうかを、僕は知らない。知らないまま、鍵だけを毎日持ち歩いている。

駅を出てから、佐伯さんに電話をかけた。ノートは学校のものではありませんでした、とだけ伝えた。彫られていた字のことは言わなかった。電話で言うことではない気がした。
「そうですか」と佐伯さんは言った。それから、「……それなら」と言いかけて、やめた。
言いかけてやめた言葉のほうが、言われた言葉より長く耳に残ることがある。改札を出ると外はまだ明るくて、夏の日というのは、こちらの用が済んでも、なかなか暮れてくれないのだった。
(第14話につづく)
朗読動画(フルバージョン)
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