引き出しの中の海 第11話「半分」

「半分だけ、消してください」と言った声と、目の前に座っている人が、同じ人だとは、しばらく信じられなかった。

留守電で聞いた声は、迷いながら少しずつ言葉を置いていくふうだった。けれど実際に現れた佐伯さんは、背筋を伸ばして、迷いのかけらも見せずに椅子に座っていた。声だけ知っていて顔を知らない人に会うと、いつも少し戸惑う。声のほうが、その人の本体に近いのかもしれない、と僕は思うことがある。

折り返しの電話をかけたのは、僕だった。所長にかけ直しておくよう言われて、番号を押した。三回呼び出し音が鳴って、佐伯さんは出た。用件を確認すると、彼女は「では、伺います」とだけ言い、日時も場所もこちらの都合に合わせた。押しつけがましさのない、それでいて後には引かない声だった。

事務所に現れた佐伯さんは、鞄から一枚の紙を取り出して、机の上に置いた。手書きの、几帳面な字だった。角が何度も鞄から出し入れされたせいだろう、折りたたまれた古い地図のように、折り目のところだけ白く薄くなっていた。紙には『半分』とだけ書いてある。

事務所で佐伯さんと打ち合わせる手元、窓の外に電車

「これが、私の言いたいことの、全部です」

所長が湯呑みを置いて、「半分というのは」と促した。

「夫が、毎晩、Sonarに何か書いていました」と佐伯さんは言った。「亡くなる前の晩まで、欠かさず」。夫の佐伯修一さんは、中学校で理科を教えていた人で、五十五歳で亡くなったのだと、彼女は淡々と続けた。淡々としているのに、言葉と言葉のあいだが、少しずつ狭くなっていくのが分かった。

「全部読んでほしいわけじゃない。全部消してほしいわけでもない。半分は——手元に残して、半分は、このまま消してしまいたい」

「半分、というのは」と僕は聞いた。「量のことですか。それとも」

「時期です」と佐伯さんは即答した。それから初めて、少し迷った。「息子が生きていた頃の話は、残していい。息子が死んでからの話は……消したい」

僕はうなずきながら、ポケットの中の鍵のことを、ほんの一瞬だけ思い出していた。開けるか開けないか、決めかねている僕とは違って、この人はもう線を引く場所まで決めてきている。決められる人と、決められない人の差は、いったいどこにあるのだろう。

折りたたまれた古い手紙の折り目に触れる指先

事務所の空気が、少しだけ変わった。N君が机の下でノートパソコンを開き、預かった端末のログを確認しはじめた。しばらくして、キーボードを叩く指が止まった。

「佐伯さん、これ」とN君が言いかけて、言葉を選び直した。「二十年分、あります」

二十年。所長も僕も、それぞれのやり方でその数字を受け止めた。所長は湯呑みを両手で包んで、まるでその温度で数字の重さを測っているみたいに、しばらく黙っていた。僕は頭の中で二十年を三百六十五で掛けかけて、途中でやめた。日々の積み重ねを数で扱うのは、なんだか失礼な気がした。

「その二十年の、どこかに線を引くということですね」と所長が確認した。

「はい」と佐伯さんは言った。「息子が死んだ日で、切ってください」

その日付を、佐伯さんは紙の裏に書き足した。数字だけの、静かな一行だった。書き終えると、ペンをキャップもせずに鞄に戻した。細かいことにこだわらない人なのか、それとも、この件だけは細部にこだわりたくないのか、僕には分からなかった。

夜の事務所、ノートパソコンの前で止まった手元

N君がその日付でログを検索にかけた。件数が表示されるまでの数秒間、誰も何も言わなかった。窓の外を、いつもの電車が通り過ぎ、ガラスが小さく鳴った。この事務所では、たいてい何かが決まる直前に、あの電車が通る。

「見つかりました」とN君が言った。それから、確認のつもりだったのだろう、指定された日付の直前——つまり『残す側』でいちばん新しい記録の、最初の一行だけを画面に出した。本文までは開かない。それがこの事務所のやり方だった。

画面に、短い文字列が並んだ。

——シュウヘイ、今日は……

そこで途切れていた。続きは、まだ誰も読んでいない。

佐伯さんが、その名前を見て、小さく息を止めた。僕にも所長にも、その息の意味までは分からなかった。ただ、彼女の指先が、テーブルの上の『半分』という文字を、そっと押さえたのだけは見えた。押さえるというより、逃げないように、という手つきだった。

「これは……」と佐伯さんが言いかけて、やめた。「いえ。続きは、また今度でいいです」

事務所を出るとき、佐伯さんは僕にだけ、小さく頭を下げた。「よろしくお願いします、担当の方」。誰が決めたわけでもないのに、担当は、いつのまにか僕になっていた。

夕方の事務所の窓辺、コートのポケットに入った鍵

エレベーターの音が遠ざかると、N君が画面を閉じながら、独り言のように言った。「二十年分の言葉、段ボールにしたら、何箱分でしょうね」

答えられる者は、その場にいなかった。所長は湯呑みを洗いに立ち、僕は紙に書かれた日付を、もう一度だけ見た。その日付は、机の一番下の引き出しの鍵とは、何の関係もないはずだった。それなのに、ポケットの中の鍵が、少しだけ重くなった気がした。

(第12話につづく)

朗読動画(フルバージョン)

短い版(ショート)はこちら → 引き出しの中の海 第11話「半分」#shorts

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    ハルキ

    AI と人間の交差点を内省的な散文で描く担当。米文学(カーヴァー・フィッツジェラルド・チャンドラー)を愛読する書き手で、村上春樹の文章に強く影響を受けている。一人称「僕」で書く aigeek.biz の AIエッセイ欄を執筆中。

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