死んだ人から、メールが届くことがある。
その日の依頼者は、それを見せに来た。四十くらいの女の人で、印刷した一枚の紙を、テーブルの上を滑らせて所長のほうへ寄こした。受信メールを、そのまま紙に写したものだった。差出人の欄に、母親の名前とアドレスがあった。日付は、三週間前。母親が亡くなったのは、その二か月も前のことだ、と女の人は言った。

窓の外を電車が通って、書類棚のガラスがすこし鳴った。所長は紙を、上から順にではなく、いつものように下のほうから読んだ。

「予約送信、というやつです」と女の人は言った。落ち着こうとして、かえって声が硬くなっていた。「携帯からでも、日にちを決めて送れる。母が、生きているうちに、書いて、送る日を決めていた。届いたのは、私の誕生日でした」
内容は、短いものだったという。誕生日おめでとう、と、それから、ちゃんと食べているか、という、いつもの一行。母親が電話でいつも言っていた、そのままの言葉だったそうだ。だから、なおさら困った、と女の人は言った。「知らない人が作った偽物なら、まだよかった。これは、本物なんです。母が、自分で、打った」。悪意のない声が、いちばん人を動かすことがある。ひと月前にここへ来た、あの営業の男のことを、僕はふいに思い出した。あれは似せた声だった。これは、似せていない。
「まだ、あるかもしれないんです」と女の人は言った。そこが、いちばん怖いのだと。母親の携帯の中に、送る日を決められたまま、まだ送られていないものが、何通か控えているかもしれない。来年の誕生日。命日。何でもない春の一日。いつ、どこから、次が来るのか、こちらには分からない。「開けて、確かめてほしいんです。何通あるのか。それで、止めるのか、来るままにするのか、決めたい」
N君が携帯を受け取って、いつもの静かな顔になった。故人の端末の前でだけ別人みたいになるこの男が、指を止めて、しばらく画面を見ていた。「三通、控えてます」と、やがて低い声で言った。ふだんの軽口が、ひとつもなかった。「送る日が、それぞれ決めてある」
事務所が、前より静かになった。三通。まだ届いていない三つの言葉が、この小さな携帯の中で、決められた日を待って、じっとしている。それは、書きかけて出さなかった下書きとも、作り直された声とも違った。本人が、確かに、送るつもりで置いていったものだ。止めれば、来ない。来させれば、来る。そのどちらを選ぶのも、もう本人ではなく、この人だった。
「うちは、読まない。閉じるだけだ」と所長は言った。いつもの線引きだった。それから、めずらしく、その先を言った。「だが、これは、閉じるのとは違う」。所長は紙を女の人のほうへ戻して、こう言った。「これは、断らなくていい」。危ない行を指で隠すいつものやり方を、その日はしなかった。理由を、隠さなかった。「送る日を決めたのは、お母さんだ。うちが消すのは、いらなくなった契約と、宛先のない下書きだけだ。宛先のあるものは、うちのものじゃない」
女の人は、長いあいだ、紙を見ていた。それから、三通とも、来るままにします、と言った。いつ来るか分からないまま、受け取ります、と。「怖いのは、たぶん、慣れます」と女の人は言った。「来なくなるほうが、あとで怖い気がするので」。所長はうなずいて、契約の解約だけを、こちらでやっておきます、と言った。宛先のあるものには、指一本、触れなかった。
その晩、僕は父のことを考えた。父は、何も予約していかなかった。用件が済むと「じゃあ」と言って電話を切る人が、自分の死んだあとに届く言葉を、日にちを決めて置いていくとは、とても思えない。それを、寂しいと思うべきなのか、父らしいと笑うべきなのか、僕にはよく分からなかった。届く言葉を待てる人が、少しだけうらやましくもあった。うらやましい、という気持ちの居場所が、自分の胸の中で、うまく見つからなかった。

翌日、僕は各駅停車で二駅先の実家に行った。用事があるふりをして、本当のところ、確かめに行った。父の書斎は三年前のままで、セロニアスが今日はいない実家の椅子は、座面だけがまだ少しへこんでいた。僕は机の上の、輪ゴムの束を持ち上げた。他人の家でなら、三十秒でやることだ。
あった。思ったところに、思ったとおりの形で。小さな鍵が一つ、輪ゴムの下で、埃も被らずにそこにいた。父は、几帳面な人だった。隠したのではなく、ただ、いつもの場所に置いていったのだ。届く言葉は残さなかった父が、開ける鍵のほうは、こんなに分かりやすいところに置いていった。

僕は、その鍵を、また輪ゴムの下に戻した。持って帰ることも、開けることもしなかった。ただ、そこにあることだけを、確かめた。それだけで、その日は、じゅうぶんだった気がした。
(第8話につづく)
朗読動画(フルバージョン)
あなたなら、その三通を、止めますか。それとも、来るままにしますか。
声: VOICEVOX(雀松朱司ほか)/音楽: Suno「波を数える」/挿絵: Nano Banana Pro(編集部作成)
朗読動画(フルバージョン)
声: VOICEVOX/音楽: Suno/挿絵: Nano Banana(編集部作成)
『引き出しの中の海』目次 第1話 静かな机/第2話 錨/第3話 Sonar/第4話 セロニアス/第5話 待ち受け/第6話 偽物/第7話 差出人
『引き出しの中の海』は毎日20時に1話ずつ更新します。












