読んでしまった一行は、拾った覚えのない小石に似ている。ポケットに入れた記憶はないのに、歩くたびに腿のあたりで小さく揺れて、確かにそこにある。捨てる場所を探しはじめると、なおさら重くなる。
あの日、階段を降りた僕は、昼食の席でけっきょく下書きのことを言い出せなかった。言うべき事務的な言葉は決まっていたのに、読んでしまった一行がその手前に立っていて、どかせなかった。娘さんは天ぷら蕎麦の出前を取ってくれて、僕らは故人の将棋の話を少しして、機材は消去の同意書が整ってから、ということでノートパソコンを預かって帰った。
翌日、僕は事務所で目録の清書をしていた。預かった機材は施錠つきの保管庫に入れる決まりで、手続きとしては何も進んでいない。進んでいないのに、僕の側では何かがもう進んでしまっていた。

「下書きが1通ありました」と僕は所長に報告した。「宛先も件名も空欄。日付は8か月前です」
有田所長は老眼鏡をすこし下げて、目録のその行を見た。60歳。元は銀行の渉外にいた人で、書類の読み方にいまでも銀行の名残がある。上から順にではなく、危ない行から先に読む。
「確認事項に入れて。渡すか消すかは娘さんが決めること」と所長は言った。「中身は」
「見ていません」
一行だけなら見たうちに入らない、という理屈を、僕は胸の中で組み立てて、口には出さなかった。厳密には嘘で、大まかには嘘ではない。そういう区分けを発明するとき、人間の頭は普段の3倍くらいよく回る。回った先に行き先はないのだが。
電車が通って、書類棚のガラスが鳴った。所長はもう次の書類に移っていた。この人の「訊かない」は、興味がないのとは違う。訊かないことで書類箱の蓋を閉めておく、そういう技術に近い。
夕方、事務所を閉めてから、商店街の外れまで歩いた。「錨」という名前の喫茶店がある。間口の狭い店で、壁には船具がひとつだけ掛かっている。真鍮の滑車だ。海のないこの町で、なぜ錨で、なぜ滑車なのか、僕は訊いたことがない。訊かないでいるあいだが、いちばんいい関係というものが、世の中にはいくつかある。

ミドリさんはカウンターの中で豆を量っていた。この店をひとりでやっていて、歳は僕の2つ下だときいている。僕がこの町でいちばん多くコーヒー代を払っている相手であり、いちばん長く、黙っている時間を共有している相手でもある。
「荷物を持ってる人の顔」と、注文を訊くより先に彼女は言った。
「重くはないんです」と僕は言った。「小さいんだけど、置き場所がなくて」
コーヒーが出てくるまでのあいだに、僕はその話を、名前と事情を全部抜いて話した。仕事で、見るつもりのないものを一行だけ見てしまったこと。規則では見ないことになっていること。誰も気づいていないこと。器だけ借りて中身は注がない、そういう話し方を、僕はこの店で覚えた。

ミドリさんは豆を挽き終えるまで黙っていた。それから、細口のポットで湯を注ぎながら言った。
「落とし物と同じでしょう、それは。拾わなければ、関係のないものだった。でも拾ったら、届けるか、自分で持っているかの2つしかないのよ。そっと道に戻すっていうのは、ない。戻したところで、拾ったことのほうは消えないから」
「読まなかったことには、できない」
「できない」と彼女はあっさり言った。「できるのは、この先どうするかを決めることだけ。あとは、コーヒーを飲むこと」
僕の前にカップが置かれた。壁の滑車が鈍く光っていた。ああいう道具は、力の向きを変えるためにある。力そのものは、減らしてくれない。
帰り道にスーパーへ寄って、瓶ビールを2本買った。うちには猫がいる。セロニアスという名前の、もう若くない雑種で、台所でどれだけ物音を立てても知らん顔のくせに、栓抜きが王冠にかかる音にだけは、耳をこちらへ向ける。その耳を見ながら1本目を飲んで、僕は決めた。明日、娘さんに電話をして、下書きの存在を伝える。それは規則どおりの、正しい手続きだ。読んでしまったことをどう言うかは、電話では決めない。小石というのは、渡す相手の顔を見てからでないと、渡し方を間違える。

翌日の昼前に、事務所から電話をかけた。娘さんはすぐに出た。同意書の日程をいくつか確認して、それから僕は言った。
「1点だけ、ご確認いただきたいものがあります。未送信の下書きメールが1通、残っていました。宛先と件名は空欄です。お渡しするか、開かずに消去するか、ご判断をいただくことになります」
受話器の向こうが、静かになった。電車が通り、書類棚のガラスが鳴って、それが済んでも、まだ静かだった。
「下書き?」と娘さんは言った。「……父に限って、そんなもの、あるはずがありません」
怒っている声ではなかった。疑っている声とも違う。強いて言えば、存在しない番地を読み上げられた人の声だった。
「一度、そちらへ伺います」と彼女は言った。電話を切ってから、僕はポケットの上から小石の位置を確かめるような仕草を、実際にしていた。
朗読動画(フルバージョン)
声: VOICEVOX(雀松朱司・九州そら・麒ヶ島宗麟・玄野武宏・波音リツ)/音楽: Suno/挿絵: Nano Banana(編集部作成)
『引き出しの中の海』目次 第1話 静かな机/第2話 錨/第3話 Sonar/第4話 セロニアス/第5話 待ち受け/第6話 偽物/第7話 差出人
『引き出しの中の海』は毎日20時に1話ずつ更新します。












