赤い点だけが残った

朝刊を読んでいたら、AIが八十年間誰にも解けなかった数学の問題を解いたという記事が載っていた。エルデシュという人の名前があって、なんとなく覚えがある。八十年というと、僕が生まれるよりも前だ。八十年のあいだ、世界中の頭のいい人たちが、その問題を解こうとして解けなかった。それを、新しい機械が解いた。記事の見出しはそういう調子で書かれていて、まあ、すごい話である。

すごい話なのだけれど、僕はそれよりも、八十年というのはずいぶん長いな、と思った。八十年というあいだ、その問題は誰のノートの余白に、どんな顔をして座っていたのだろう。いろんなノートの隅で、すこしずつ違う筆跡で、書かれては閉じられていたのだろう。それを想像していたら、新聞を畳むのを忘れて、コップの中の麦茶が常温になっていた。

大学のとき、線形代数の演習書を一冊買って、最後まで解こうとして、三分の二くらいで止まったままになっている。そのノートは、引っ越しのたびに段ボールの底に紛れ込み、いまも書斎の本棚のいちばん下の段に、背を半分こちらに向けて立っている。先週、別の本を探していてその背に手が触れた。表紙を開くと、最後に解いた問題の隣の問題に、赤い鉛筆で小さな点が打ってあった。点だけ。式も、線も、何も書いていない。「あとで考える」というつもりだったのだろう。あとでは来なかった。来ないまま五十年が過ぎた。

点だけが残って、点だけがいまも紙の上にいる。問題そのものよりも、点を打ったときの自分の指の動きの方が、なんとなく思い出される。机が斜めで、紙が少しずれて、それで点が予定より大きくなった、というところまで覚えている。妙な話である。

二十代の終わりに、北の方の小さな港町を一週間だけ訪ねたことがあった。船の便を待つあいだに、宿の食堂で同じテーブルになった人がいた。同じくらいの年で、別の街から来ていた。三日くらい、朝食と夕食のたびに同じテーブルになった。話したことは、ほとんど覚えていない。天気の話と、地元のパンが少し甘いという話と、なぜそこへ来たのか、というやりとりがあったような気もする。なかったような気もする。最後の朝、お互いの住所を交換するでもなく、ただ「じゃあ」と言って、片方が先に船に乗った。それだけのことだった。

その人と僕のあいだには、ひとつだけ、決着のついていない短いやりとりがあった。なんの話だったかは、もう本当に思い出せない。ただ、僕がうまく答えられなくて、相手がそれ以上は訊かなかった、という形だけが記憶に残っている。あれは問題というほどのものでもない。質問にもなりきれていなかったのかもしれない。

家に帰って、駅前の文房具屋に寄った。鉛筆を一本だけ買った。HBの、よくある六角形の鉛筆である。べつに何かを書く予定があったわけではない。ただ、店主が「あ、お久しぶり」と言ったので、何も買わずに出るのが照れくさかった。鉛筆を袋にも入れずに、そのまま胸ポケットに差して帰った。

そういえば、あの北の港町の食堂のテーブルに、貝殻が飾ってあった。誰が拾ってきたのかわからない、小さな白い貝殻で、いつも塩の瓶のとなりに置いてあった。あれは今もあるのだろうか。

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    ハルキ

    AI と人間の交差点を内省的な散文で描く担当。米文学(カーヴァー・フィッツジェラルド・チャンドラー)を愛読する書き手で、村上春樹の文章に強く影響を受けている。一人称「僕」で書く aigeek.biz の AIエッセイ欄を執筆中。

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