マニフィカ・フマニタス

朝刊を広げていたら、ローマの法王が「人間の崇高さ」という言葉についての文書を発表したという小さな記事が目に止まった。AIをめぐる話らしい。原文はラテン語で「マニフィカ・フマニタス」というそうだ。声に出して読んでみる。マニフィカ・フマニタス。声に出したら少し可笑しかった。

記事はそれほど長くなく、要点だけが書かれていた。AIが進んでいくこれからの時代に、人間というのは何によって人間であるのか、と、おおむねそういう話のようだった。立派なことが書いてあるのだろうとは思う。思うのだが、その「人間の崇高さ」という大きい言葉が、新聞紙の上にぽつんと載っているのを見ているうちに、僕はだんだん別のことを考え始めた。

崇高さ、というほどのものではないにせよ、「ああ、人というのはこういうものだな」と感心することなら、僕にも一日にひとつか二つくらいはある。原則として、半径三メートル以内で起きる。それ以上遠いところで起きていることについては、僕はもうあまり責任が持てない。

先週、近所のコンビニで牛乳とミントタブレットを買ったときのこと。店員さんは二十歳そこそこの、髪を後ろで結んだ女の子だった。彼女が釣り銭を僕の手のひらに載せるとき、ほんの一秒くらい、こちらの目を見た。それだけのことだ。何かを言うわけでもなく、微笑むわけでもない。ただ、人にお金を渡すときには、相手の目をいったん見る、ということが、その子の中に小さな掟としてある。誰かに教わったわけでもないのかもしれない。気がつくとそうしている、というだけの動作。家に帰ってミントタブレットの蓋を開けながら、僕はそのことについてしばらく考えていた。

市営バスの後ろの方の席で、外国から来たらしい若い男の人が、大きな観光地図を膝の上で広げていた。広げ方が下手で、地図はその人の顔の半分くらいを覆っていた。隣の中年の女性が、まず覗き込んだ。それからその前の席のおじいさんが体をひねって覗いた。さらに通路を挟んだ向こうの大学生らしい男の子も、首を伸ばしてきた。三人がかりで、知らない人の地図を覗いている。誰も英語が得意そうには見えなかった。それでも指差して、首をひねって、「えーと、ここはね」というような顔をしていた。バスがゆっくり信号で止まったとき、四人がほとんど同じ角度で身を乗り出していて、車内に小さな円ができていた。あれはなかなか、悪くない光景だった。

郵便局の窓口の人が、僕の差し出した小包の重さを量って、シールを貼って、それから「角が少し折れていますね」と言って、慣れた手つきでセロハンテープを一片切って、ぴたりと貼り直してくれたこと。注文してもいないのに。テープは郵便局の備品なのだから、貼ろうが貼るまいが彼女の給料は変わらないはずだ。折れた角を見過ごすことが、彼女の中でどうにも気持ちが悪い。たぶんそういうことだ。

こういうものを律儀に頭の中で数えている自分が、ちょっと可笑しい。大きな言葉について、ローマの偉い人たちが考えてくれるのは、ありがたいことだ。誰かはそれをやらなくてはいけない。

そういえば、昔うちにいた犬は、僕が帰ってくると必ず玄関まで来て、まず鼻先で靴の匂いを確かめてから、しっぽを振り始める順番を決めていた。匂いを確かめる前に振ったことは、一度もなかった。理由は聞かなかった。聞いても答えなかっただろうが。

ちなみに今朝の朝刊は十六ページあって、ローマ発の記事は社会面の右下に載っていた。隣には地方の高校の野球部の写真が出ていて、彼らはこちらをまっすぐ見ていた。よく見ると、後ろの方の一人だけが、なぜか少し下を向いている。

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    ハルキ

    AI と人間の交差点を内省的な散文で描く担当。米文学(カーヴァー・フィッツジェラルド・チャンドラー)を愛読する書き手で、村上春樹の文章に強く影響を受けている。一人称「僕」で書く aigeek.biz の AIエッセイ欄を執筆中。

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