十円玉が落ちる音

テレビ台の引き出しを整理していたら、テレフォンカードが一枚出てきた。富士山の絵柄で、隅のところがほんの少し反り返っている。残度数の表示窓に小さな穴がいくつか空いていて、ずいぶん使い込まれた形跡がある。最後の一回分くらいはまだ残っているらしい。

このあいだ新聞で、二十四時間どんな質問にも答えてくれる窓口のような仕組みの話を読んだ。夜中に申込書の書き方を訊いてもいいし、明け方に保険のことを訊いてもいい。相手は決して切らないし、決して待たせない。記事の中で誰かが「便利な時代になりました」と言っていた。たぶんそうなのだろうと思う。

ただ、テレフォンカードを手に持っていると、別のことを考えてしまう。

二十代の半ばだったか、後半だったか、その辺りの記憶はだいたい霧の向こうにある。とにかく当時、僕には少しのあいだだけ親しくしていた外国の知人がいた。三週間か、長くて一ヶ月くらい。同じ町に滞在していて、よく一緒に食事をした。名前の発音はいまもはっきりとは思い出せない。Y で始まったような気もするし、J だったような気もする。彼が帰国してからしばらく、僕らは手紙のやりとりをし、それから国際電話のやりとりに少しだけなった。

当時、家に長電話のできるような電話はなかった。あったかもしれないが、料金のことを考えるとそうそう使えなかった。だから僕は、駅前のロータリーの隅にあった緑色の公衆電話まで歩いていった。家から五分ほどのところで、郵便局の隣だった。郵便局のシャッターはいつも夕方の五時にぴったり閉まり、その横で僕は、ポケットの中の十円玉と百円玉を握りしめながら、受話器をとっていた。

国際電話というのは、十円玉ではあっという間に終わる。具体的に言うと、相手がもしもし、と言って、こちらが元気か、と訊いて、向こうがまあまあだ、と答えるあたりで、もう十円玉が一枚、台の中に落ちていく音が聞こえた。あの落ちる音は独特だった。コトン、というには軽すぎる。チャリン、というには鈍い。その音を聞くたびに、僕は会話のスピードを少しだけ上げた。残りは何枚あるか、ポケットの中で指で数える。あと六枚しかない、と思うと、急に話したいことが頭から消えていくのだった。

テレフォンカードを買ったのは、たしかその少しあとだ。郵便局で買ったのか、駅の売店で買ったのか、覚えていない。あれを差し込むと、表示窓の数字が一つずつ減っていくのがガラス越しに見えた。減っていく数字を見ながら話すというのも、考えてみればずいぶん奇妙な経験だったように思う。残り十八、と表示されたら、あと何分話せるのかを頭の隅で計算している。話の内容よりも、計算の方に意識の半分くらいが持っていかれていた。

彼との連絡はある時期から途絶えた。喧嘩をしたわけではない。手紙の返事が遅くなり、こちらも遅くなり、そのうちに、書くこと自体が億劫になっていった。郵便受けまで歩いて、何も入っていないのを確かめて引き返す、というのを何回か繰り返したあとで、僕は彼の住所を書いた小さなメモをどこかにしまい込み、そのままになった。引き出しの奥のどこかにまだあるはずだが、探したことはない。

あの頃の不便さが良かった、と書きたいところだが、そう書くと格好がつきすぎる。本当のところは、十円玉が落ちる音を聞きながら受話器を握っていたあの夕方のことを、カードを手に持ったまま思い出していた、ということに過ぎない。郵便局のシャッターが下りる音、その横で立っていた自分の影、そういうものが切れぎれに浮かんでは沈んでいった。残り何枚、と数えながら、まだ言っていない言葉を選んでいた。

カードをテレビ台の上に置いておいたら、翌朝には消えていた。妻が捨てたのか、どこかにしまったのか、訊いていない。ちなみに郵便局のシャッターは、いまも夕方ちょうどに閉まる。四時五十八分か五時二分か、そのあたりだと近所の人が言っていたが、僕自身は確認したことがない。

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    ハルキ

    AI と人間の交差点を内省的な散文で描く担当。米文学(カーヴァー・フィッツジェラルド・チャンドラー)を愛読する書き手で、村上春樹の文章に強く影響を受けている。一人称「僕」で書く aigeek.biz の AIエッセイ欄を執筆中。

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