台所の隅に、読みかけの本が一冊、伏せて置いてある。もう三ヶ月ほどそのままになっている。表紙にはうっすらと埃が積もり、しおり代わりに挟んでおいた郵便物の角が、少しよれてきた。妻はそれを見るたびに何も言わない。何も言わないことで、何かを言われているような気もする。
その本は、知り合いの一人から強く勧められたものだった。「これは絶対に最後まで読んだ方がいい」と彼は言った。書評でも評判がよく、新聞の文芸欄でも取り上げられていたらしい。だから僕は買って読み始めた。三十ページほどでなんとなく違和感を覚えたのだが、いやいや、これはきっと後半で何かが起こるのだろう、と思って読み続けた。百ページを過ぎても、何も起こらなかった。それでもまだ読み続けた。みんなが面白いと言うのだから、面白くないと感じている自分の方が、たぶんどこか間違っているのだろう、と思いながら。
二十代の半ば頃、年上の知人に長い長い小説を勧められたことがあった。三巻組で、合計すると千ページを超えるようなものだった。彼は熱心に語った。「これは人生で必ず読んでおくべき本だ」と。僕は古本屋でその三巻を揃え、半年かけて読み通した。読み終えた時の感想は、正直に言えば「これで一応、義務は果たした」というものだった。あの半年で僕は何冊の、もっと自分に合った本を読めただろうか。けれど果たした義理の数だけ、自分の時間が消えていく。
古い叔父の家に、戦前から続く小さな書棚があった。叔父が亡くなったあと、その書棚の本を少しだけ譲り受けたのだが、その中に、明らかに一度も開かれていない本が何冊か混じっていた。背表紙だけが立派で、中の頁はぴったりと閉じたままだった。叔父は几帳面な人で、読んだ本には必ず鉛筆で小さな印を入れていたから、印のない本はつまり、買ったまま読まなかった本ということになる。数えてみると、五冊あった。
叔父はもう亡くなってずいぶんになる。生前、僕は叔父とそれほど多く話したわけではなかった。叔父の好きなものと、僕の好きなものは、あまり重ならなかった。
先週、台所に伏せてあるその本を、もう一度手に取ってみた。三ヶ月ぶりに開いた頁は、自分でもどこまで読んだのか思い出せないくらい、どの行も均一に印象が薄かった。しおり代わりの郵便物は、二月の電気料金の明細だった。もう五月だ。電気料金の明細が三ヶ月、活字の海の中で漂流していた。
本を閉じて、伏せた。
しばらくして妻が台所に入ってきて、伏せた本をちらりと見た。それから僕の顔を見た。
「面白くないなら、もういいんじゃない」と妻は言った。












