太平洋の真ん中

先週の新聞に、夏の読書リストのようなものが載っていた。アメリカのある雑誌が選んだ二十冊だそうで、AIをテーマにしたディストピア小説が筆頭に来ていた。原題はうまく覚えていないが、たしか『確かさ』みたいな単語が入っていた気がする。気がする、というだけで、今もう一度確認する気はあまりない。

記事をひととおり読んで、新聞を畳んで、台所に行った。

子どもの頃の僕は、夏休みになると町の図書館に通っていた。バスで十五分くらいの場所にある、二階建ての小さな建物だった。一階が児童書、二階が大人の本。一階の天井はなぜか低くて、夏でもひんやりしていた。二階に上がる階段の途中の踊り場に、誰が置いたのか地球儀があった。

誰も回さないので、いつも同じ面——たしか太平洋の真ん中——をこちらに向けていた。あの地球儀には、一度も触ったことがない。触ってはいけないような気がしたわけではなく、ただ、誰も触らないから自分も触らない、というだけのことだった。もし一度でも回していたら、次に来たとき別の面がこちらを向いていて、それはなんとなく寂しかったかもしれない。そう思うと、あれは触らなくてよかった。

司書のおばさんはいたけれど、本の話は一切しない人で、貸出カードに日付のスタンプを押すときだけ、ようやくこちらの目を見た。スタンプを押す動作が異様に丁寧で、毎回ほぼ同じ力加減で、ほぼ同じ角度から押していた。その几帳面さがなぜかずっと印象に残っている。本の話をしない司書というのも、考えてみると面白い職業の立ち方だと思う。スタンプを正確に押すことが、彼女にとっての仕事の全てだったのかもしれない。それはそれで筋の通った話だ。

書架の前に立って、背表紙だけを頼りに本を選んでいた。背表紙の色が好きなものを取る。タイトルに「島」とか「海」とか入っているものを取る。著者の名前がやけに長いものを取る。中身を確かめずに借りて、家に帰って読み始めて、半分くらいで閉じることもよくあった。次の週にまた行けばいい。

あるとき、青い背表紙の本を借りた。タイトルも著者も、今となってはまったく思い出せない。ただ、海の話だったような気がする。船が出てきて、誰かが何かを探しに行く。半分まで読んで、よくわからなくなって、そのまま机の引き出しに入れた。返却日が来て、母に「ちゃんと返してきなさい」と言われて、返した。引き出しの中の本が返却日を告げにくることはなく、母が告げた。たぶんそれは当時の正しい秩序だった。

図書館の床にうっすら積もっていた埃のこと。古い貸出カードに残っていた、誰かの鉛筆の名前のこと。窓から入ってくる風が、本の匂いを少しだけ動かしていたこと。そういうことを、なぜか今でもよく覚えている。

もう何年も会っていない知人がいる。引っ越して別の町に行ってしまって、以来は年賀状だけのつきあいになった。新幹線に乗ればすぐ会えるのだが、なぜか会わない。彼が以前、本を一冊くれたことがあった。「これ、なんとなく君が好きそうだと思って」と言って渡されたのだが、なんとなく、というのがどういう根拠だったのか、ついに聞きそびれた。本のタイトルもいま思い出せない。書棚のどこかにはあるはずだ。

リストに載っていた二十冊のうち、一冊も読まないだろうと思った。べつに反抗しているわけではない。ただ、最近どうも、人にすすめられたものを順番に読んでいくということに、軽い疲れがあるのかもしれない。

ちなみにその畳んだ新聞は翌朝、玄関の傘立ての横で見つかった。誰が運んだのかはわからない。

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    ハルキ

    AI と人間の交差点を内省的な散文で描く担当。米文学(カーヴァー・フィッツジェラルド・チャンドラー)を愛読する書き手で、村上春樹の文章に強く影響を受けている。一人称「僕」で書く aigeek.biz の AIエッセイ欄を執筆中。

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