成田のホテルのロビーで、見覚えのある男が手を振っていた。三十年ぶりくらいだろうか。彼は何かを早口で言った。タイ語だ。三十年前にバンコクの古い宿で偶然同じテーブルに座った頃から、僕たちは互いの言葉を断片的にしか知らないままだった。彼は「コンニチワ」と「アリガトウ」、僕は「サワディー」と「コップンカー」、それくらいの距離感で何度か手紙のやりとりをし、いつのまにか年に一度の年賀状だけになっていた。彼の隣にいた背の高い女性は、たぶん奥さんなのだろう、薄く笑って僕の方を見た。僕はポケットから携帯を出して、翻訳のアプリを起動した。手のひらの上で、タイ語が日本語に変わっていく。「久しぶりだね、元気そうで何よりだ」と画面には書いてあった。僕はうなずいて、同じアプリに向かって日本語を吹き込んだ。機械が代わりに喋ってくれる。便利な時代になったものだ、と思う。思うのだが、何かが少しだけ、奇妙な角度で傾いていた。
父は印刷工場に勤めていた。僕が小学生の頃の話だ。市の外れにある、コンクリートの壁が油で黒ずんだ建物で、中に入るとインクの匂いが鼻の奥にまで届いた。父はそこで二十年以上働いた。職人というには事務的で、事務員というには指がいつも汚れている、そういう中途半端な立ち位置にいた人だった。
ある時期から、工場に新しい輪転機が入った。ドイツ製だかスイス製だか、とにかく外国の機械で、それまで五人がかりでやっていた作業を一人でこなせるという話だった。父はその機械の説明書を家に持ち帰って、夕食のあとに台所のテーブルで読んでいた。説明書は厚かった。父は数学が得意な人ではなかったし、英語にいたってはほとんどお手上げだったから、辞書を引きながらノートにメモを取っていた。母はその横でみかんを剥いていた。「これでお父さんも楽になるね」と母は言った。父は何も答えなかった。みかんの皮を一枚もらって、それを灰皿の脇に置いた。
三年後、父は工場を辞めた。正確には、辞めさせられた。輪転機が二台に増え、人が要らなくなった。父はその後、近所のクリーニング屋の配達を手伝ったり、市役所の臨時の仕事をしたりして、六十五歳まで働いた。本人は何も言わなかったが、晩年になって一度だけ、酔った夜に「あの機械の説明書を読んでいたのは、結局なんのためだったのかね」とつぶやいたことがある。僕は答えなかった。答えられなかった、というほうが正しい。
町の写真屋のオクムラさんが店を畳んだのは、それから二十年ほど経った頃だ。誰もフィルムを現像しに来なくなった。看板は最後まで外されず、ガラスの引き戸には「閉店のお知らせ」という紙が貼られたきりだった。オクムラさんは僕の七つか八つ上で、結婚式や入学式や葬式の写真を、町じゅうの家で撮ってきた人だった。閉店の翌週、僕は商店街で彼に会った。「何か新しいことをやろうかと思ってるんだ」と彼は笑った。何をやるのかは言わなかった。たぶん、決まっていなかったのだろう。彼はその二年後に亡くなった。
「仕事がなくなる」という言葉は、最近ずいぶん軽く扱われるようになった、と思う。先週、海外の大きな会社が千百人を解雇したというニュースを読んだ。AIが代わりにやってくれるのだそうだ。記事の最後には、企業の業績は過去最高だと書いてあった。「代わりに何かが生まれるはずだ」と、別の記事の専門家がコメントしていた。たぶんそうなのだろう。歴史を見れば、たぶんそうだ。だがその「代わりに」という言葉が、父の輪転機の説明書や、オクムラさんの最後の笑顔の上に重ねて置かれると、何か奇妙な軽さがある。便箋一枚ぶんくらいの軽さ、と言ってもいい。
もっとも僕という人間は、便利な道具を渡されるたびに、その道具に申し訳ないような気持ちになる悪い癖があって、これはたぶん一生治らない。今日も成田のロビーで、翻訳アプリを使いながら、どこかで誰かの仕事をひとつ、静かに削っているのだろうな、と思った。思いながら、それでも使う。使わないと話が進まないからだ。話が進まないと、三十年ぶりに会った男と、何も交わせないまま別れることになる。それは困る。困るのだが、困ることと、申し訳ないこととは、少し違う場所にある。
夕方、ホテルの部屋に戻る前に、ロビーの隅で例の男ともう一度立ち話をした。彼は携帯の画面を僕に見せて、何かを伝えようとした。画面の翻訳は少しぎこちなかった。それでも意味は通じた。彼は最後に、アプリを通さず、ゆっくりと日本語で言った。たぶん何年もかけて覚えた言葉だったのだろう。「お父さんは、お元気ですか」と彼は言った。僕は少し黙って、「もう、いないんだ」と答えた。彼はうなずいて、「そうですか」と日本語で言った。それから携帯をしまって、エレベーターの方へ歩いていった。
(このエッセイは、AI導入による雇用消滅と、便利さの裏側にある喪失感について書いたものです。)












