死んだ人の机は、生きている人の机より静かだ。──二年前、この仕事を始めたとき、僕はそう思った。物が少ないとか、埃をかぶっているとか、そういう話ではない。持ち主が戻らないと決まった机は、鳴るはずの音を全部あきらめた楽器に似ている、と。
今はもう、そうは思わない。静かな机には、静かなだけの理由があって、それは空っぽということではなかった。
月曜、事務所に出ると、N君が来週の予定表を壁に貼っていた。Sonarが二台ある例の依頼は、来週の水曜に決まったらしい。「二人分の履歴、どうやって切り分けるんですかね」とN君が言うので、「行ってみないと分からない」とだけ答えた。この仕事のほとんどは、行ってみないと分からないことでできている。窓の外を私鉄の電車が通り過ぎ、書類棚のガラスがすこしだけ鳴った。二年間、数えきれないくらい聞いた音だ。所長は奥の席で、いつもどおり書類に判を押していた。今朝も日報の五行目には何も書かなかった。書くことが、もうなかった。

その日は有休を取って、実家へ行った。母には前もって電話をしていた。「話したいことがある」とだけ言うと、母は「うん」とだけ返して、それ以上は訊かなかった。
移された机は、部屋の隅で、前よりまっすぐに置かれていた。一番下の引き出しはもう空だ。中にあったフィルムも、写真も、携帯も、先週のうちに戻してある。
「お父さんの携帯に、下書きが一つ残ってた」
僕はそれだけ言った。三行、宛先は僕、日付は死の一年前。中身までは言わなかった。母は湯呑みを両手で包むように持ったまま、しばらく黙っていた。それから、「読んだの」と訊いた。
「読んだ。何度も」
「続きは」
「分からない。回線はもう解約されてたから、送るつもりだったのか、そうでもなかったのか、それも分からない」
母は小さく頷いた。「開けたら、それ、わたしの物になっちゃうでしょう」と、九月のあの日に言ったのと同じことを、また言った。「あなたが開けてくれて、よかった。わたしには、たぶん、できなかった」
僕は鞄から、折った紙を出した。父への返事を、昨夜書いた。Sonarには打たなかった。打てば、どこかへ届く気がした。届くところなどもうないのに。紙に書けば、それはただ、そこに在るだけのものになる。
「十歳の冬のことは、僕も半分しか覚えてない。でも、波は今も数えられる」──書いたのは、そんな短い一行だった。続きを知る方法はない。それでいい、と僕は決めていた。
引き出しに、その紙を入れた。鍵も、ポケットから出して、紙の上に置いた。かけなかった。開けたままでいい。もう、誰かから隠すためのものではなくなっていた。

「鍵、持って帰らないの」
「もういい」と僕は言った。「ここに置いておく」
母は何も言わずに、引き出しをゆっくり閉じた。かちり、という音がしなかった。かかっていない引き出しは、それだけで少し違う音を立てる。
帰り際、母が携帯を構えて、「撮っていい」と言った。父がいつも、僕の背中しか撮れなかった話は、母から聞いていた。振り向くのを待って、待っているうちにシャッターを押してしまう人だった、と。
僕は、構えられる前に振り向いた。母は少し驚いた顔をしてから、笑って、シャッターを切った。
「お父さんね」と母が言った。「三十五年、それができなかったのよ」
「知ってる」
「あなたは、一回でできたね」
できた、というより、待たれる前にやった、というだけかもしれない。それでも、三十五年より短い時間で、一つだけ何かが変わった気がした。
玄関を出るとき、部屋の隅にあった父の椅子に目が行った。「持って帰っていい?」と訊くと、母は「どうぞ」と言った。「あの人も、誰かが座ってくれるほうが、喜ぶと思う」
電車の中で、椅子の脚を膝のあいだに挟んで、少し揺れながら帰った。窓の外の景色が流れるのを見ながら、波を数えるように、駅の数を数えた。三、四、五。減りはしないが、数えるとどこかに着く。

部屋に着いて、椅子を机の前に置いた。座面はまだ、実家の畳のにおいがした。セロニアスが寄ってきて、匂いを嗅ぎ、ためらいもなく飛び乗って、前足をきちんとそろえて丸くなった。三年前、初めて僕の部屋に来た日と同じ顔をしていた。この椅子の座り心地を、この猫は忘れていない。僕が忘れたふりをしているものを、猫のほうはいつも忘れていない。

自分の机の椅子に座って、しばらくそれを眺めていた。安物の合皮の椅子と、父の古い木の椅子が、同じ部屋に並んでいるのは妙な眺めだった。それでも、二つとも僕の部屋にあることが、今は自然に思えた。
死んだ人の机は静かだ。でも、それは空っぽという意味ではない。静かなまま、誰かがまだ数え続けている波が、そこにはある。
僕の机も、いつか誰かが閉じるだろう。そのとき、この机が今日みたいに静かであるように──それだけを思いながら、僕は今日も、次の現場の住所をメモに書いた。
(了)












