朝、台所のテーブルで海外の新聞のオンライン版をぼんやり眺めていたら、シロイルカが鏡に映った自分を自分だと認識できるらしい、という記事に出くわした。鏡像認知、というやつである。象、カササギ、イルカ、それから一部の類人猿。そのリストにシロイルカが新しく加わったということらしい。記事には、水槽の前でシロイルカが体をひねって、鏡の中の自分を確かめている写真が添えられていた。白い大きな体が、白い大きな体と向き合っている。なんとなく、見てはいけないものを見ているような気がして、僕はしばらくその写真から目を離せなかった。
記事をそこまで読んだあたりで、なぜか急に、子どもの頃の洗面所のことを思い出した。たしか小学校の三年か四年だったと思う。具体的な学年はもう怪しい。ある朝、顔を洗うために洗面所に立って、ふと鏡の中の自分の顔をじっと見たことがあった。べつに何か用があって見たのではない。歯ブラシを口に入れたまま、口の中で泡が広がっていくのを感じながら、自分の顔をじっと見つめていた。一分か二分か、もう少し長かったかもしれない。
そのときに、なんというか、奇妙な感じが背中の方からゆっくり上がってきたのである。これは、本当に自分の顔なのだろうか。鏡の中で僕を見返しているこの子どもは、本当に僕なのだろうか。そう思った瞬間に、鏡の中の顔が、ほんの少し、自分から離れていったような気がした。自分の顔のはずなのに、誰か別の人がこちらを見ている。そういう感じだった。歯ブラシを持っている手だけが、いやに具体的に重かった。
その朝のことを、僕はその後、何十年もほとんど思い出さなかった。シロイルカの記事を読まなかったら、今日もそのまま忘れていた。そのあいだ、あの記憶はどこにあったのか。僕の中にあったはずである。けれど本当にそうだろうかと、いささか疑わしい気もする。
話は少し変わるが、自分の顔のどこにほくろがあるか、僕は正確には言えない。妻のほくろの位置の方が、よく覚えている。自分の顔を見るときには鏡を介さなくてはいけないが、妻の顔は直接見られるからだ。
先日、机の周りを片づけていたら、中学生くらいの自分が庭の柿の木の前で半分笑いかけている写真が出てきた。たしか父が撮ったものだったと思う。誰が撮ったのかははっきりしない。とにかくその写真の中の少年を、僕はうまく自分だと認識できなかった。顔の作りは確かに僕のものなのだけれど、その表情を作った瞬間の感情が、もうこちらには届かない。何を考えていたのか、どんな匂いの中に立っていたのか、まったく思い出せない。これは僕なのだろうか、と、洗面所の朝と同じことを、六十年近く経ってから台所でつぶやいていた。我ながら、進歩というものがあまり感じられない。
シロイルカは鏡の中の自分を見て、何を思うのだろう。たぶん「思う」という言葉は正しくないのだろうけれど、ほかに適当な言葉も見つからない。あれは便利なものなのか、それとも厄介なものなのか。シロイルカ本人——本イルカ、と言うべきかもしれないが——にしか分からない。
記事の最後のあたりに、研究者の短いコメントが載っていた。「鏡像認知ができるかどうかは、自己意識の有無を決定的に証明するものではない」というような、慎重な言い方だった。学者の人というのは、こういう肝心な部分で必ず一歩下がる。それが彼らの仕事の品の良さだと思う。僕は読み終わって、コーヒーカップを流しに運んだ。流しのステンレスにも、ぼんやりと自分の顔が映った。ぼんやりしすぎていて、これが本当に自分かどうかは、もうどうでもよかった。
ちなみにその新聞のオンライン版は、画面を閉じる前にうっかり別のリンクを押してしまって、まったく関係のないチーズの記事に飛んでしまった。ノルウェーの茶色いチーズの話だった。なぜそんな記事を読まされる羽目になったのか、僕には説明がつかない。妻に話したら、「あなたはいつもそうやって脱線する」と言われた。たぶん、シロイルカも鏡の前で似たようなことをやっているのではないかと、僕はひそかに思っている。












