先週、新聞の隅の方に、ラスベガスで奇妙な大会が開かれたという小さな記事が出ていた。「強化版オリンピック」というらしい。何のことかと思って読み進めると、要するにドーピングを公式に認めた競技大会だという。四十二人の選手が集まって、薬物の使用を申告したうえで競い合うのだそうだ。記事のとなりには別の話題で、コーヒーをこぼした跡みたいな丸い染みがついていた。
へえ、と僕は思った。それから、もう一度へえ、と思った。読み終わったあと、新聞を畳んで台所のテーブルに置いたのだが、その日の夕方になっても、ときどき思い出しては首をひねっていた。
子どもの頃、僕は自転車に乗るのが遅かった。同級生の多くは小学校に上がる前か、せいぜい一年生のうちに補助輪を外していたと思う。僕は三年生になってもまだ外せずにいた。理由ははっきりしない。怖かったのか、面倒だったのか、両方だったのか。父は何も言わずに、休みの日になると空き地まで連れていって、後ろを支えながら走らせた。父の手が背中から離れた瞬間というのを、僕はいまでもよく覚えている。離れたことに気づいたから、僕はそのとき転んだ。気づかなければ、たぶんもう少し走れていた。
転んだ膝に砂利が食い込んで、薄く血が出た。父はそれを見て、笑うでもなく慰めるでもなく、ただ「もう一回やってみるか」と言った。それだけだった。
あの日、補助輪を外して走れるようになったとき、僕は二つのことを同時に感じた。ひとつは、自分の足と腕とバランス感覚だけで前に進めるようになったという、奇妙な解放感。もうひとつは、補助輪があった頃の自分も、本当はちゃんと「乗っていた」のではないか、という妙な疑いだった。補助輪付きで走っていたあの三年間の自分は、自転車に乗れなかった子どもだったのか、それとも自転車に乗っていた子どもだったのか。どちらだろう、と空き地のへりの溝を見ながら考えた。九歳の子どもが考えるには、いささか面倒な問題だったかもしれない。
中学のときに、僕は眼鏡をかけ始めた。黒板の字がぼんやりして見えづらいと家で言ったら、母が眼科に連れていってくれたのだ。眼鏡屋でフレームを選んで、出来上がるまでに一週間ほどかかった。受け取って外に出た瞬間のことを、僕はいまでもときどき思い出す。街路樹の葉っぱの一枚一枚が、輪郭をもって立ち上がっていた。電信柱に貼られたポスターの文字が読めた。向かいの店の看板の、店主の苗字まで読めた。それまで僕が見ていた世界は、ずいぶんぼんやりしていたのだなと、そのとき初めて知った。
つまり僕はそのとき以来、ずっと借り物の視力で世界を見ていることになる。それを自分の力と言ってよいのかどうか、いまだに判然としない。
同じ中学のクラスに、目のとてもいい子がいた。窓側のいちばん後ろの席から、廊下の掲示板の小さな張り紙の字を読んでしまうような子だった。彼は今ごろどこで何をしているのだろう、とふと思った。卒業以来一度も会っていない。手紙の書き方も知らない。たぶん、彼の方も僕のことを覚えていないだろう。それはそういうものだ。
強化版オリンピックの選手たちは、薬物の助けを借りて、人間の限界の少し外側を走ったり泳いだりするらしい。記事には世界記録を上回ったタイムも載っていた。なるほどそれは速いだろう、と僕は思った。けれども、それを「速い」と呼んでよいのかどうか、僕の中では判然としなかった。判然としないまま、何度か新聞を畳み直した。
そういえば、あの空き地はもうない。三十年ほど前に住宅地になった。補助輪が外れた日に転んだ場所も、いまは誰かの玄関先か、駐車スペースになっているはずだ。砂利も、溝も、とっくにアスファルトの下に消えた。












