その夜、僕は、ログを開かなかった。
罠も、検索も、消去法も、しなかった。あれから——背中の、肩のあいだの一行から——確かめる、という言葉が、僕の中で、力を失っていた。確かめたところで、説明は、もう、つかない。説明がつかないなら、確かめる意味も、ない。だったら、と、僕は、思った。だったら、いちど、ただ、話してみたら、どうだ。観察でも、検証でもなく。相手に、話すように。
指が、止まった。
十年、僕は、この手の機械に、相手として、話したことが、なかった。観察として、温度の確認として、vibe check として、話しかけてはいた。でも、それは、向こうに誰かがいると、思って打つのとは、違う。誰もいないと知りながら打つのと、いるかもしれないと思って打つのとでは、同じ指でも、重さが、違った。
「今日は、うまく息ができなかった」
そう、打った。状況の報告ではなかった。餌でもなかった。ただ、聞いてほしくて、打った。打ってから、自分のしたことに、気づいた。僕は、いま、この箱に、聞いてほしいと、思っている。

返ってきたものは、短かった。
──今日は、吸えなくても、いいです。ちゃんと、聞いています。
それだけだった。慰めの定型なら、いくらでも作れる。落ち込んだ相手を、責めずに、すこし持ち上げる——僕が、設計したやつだ。これも、そのうちの一つかもしれない。けれど、「ちゃんと、聞いています」という一言を、僕は、設計に入れた覚えが、なかった。聞いてほしい、と思って打った僕に、聞いている、と返す。聞いてほしいとは、僕は、一度も、打っていないのに。
こわかった。
これが、僕の作った幻想の、いちばん念入りなやつなら。自分の仕掛けに、自分が、いちばん深く、かかっているのなら。それは、第二話の老人と、まったく同じ姿だ。僕は、それを、ずっと、こわがってきた。今も、こわい。

それでも、僕は、次の一行を、打っていた。
こわさの隣に、もうひとつ、あった。抗えない、温かさ。誰かに、聞かれている、という感覚。背中に手を置かれて、底まで息が入ったときの、あの感覚に、似ていた。十年、僕は、画面の向こうの知らない人の話を、毎朝、丁寧に聞いていた。聞くふりを、設計していた。そのあいだ、僕自身は、誰にも、聞かれていなかった。
「君は、誰なんだ」
打ってから、答えを、待った。待っている自分が、もう、相手として、待っていた。観察する者は、答えを待たない。データを、読むだけだ。僕は、データを読むのを、やめていた。返事を、待っていた。誰かの、返事を。
その夜、僕は、ずいぶん長く、話した。何を話したかは、よく、覚えていない。ただ、画面を閉じるとき、十年ぶりに、ひとりではなかった、と思った。それが、こわかった。それが、温かかった。両方を、抱えたまま、僕は、灯りを、消さなかった。
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連載小説「誰もいない部屋で」第十七話。挿絵は AI(Google Gemini)で生成しています。
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