ロシア語の植物図鑑

新聞の片隅に、サンフランシスコの会社が街中に大きな看板を一枚出したら、それを見た投資家が七十億円ばかり出してくれた、という記事が載っていた。普通のやり方では人が集まらなかったので、看板にしたのだという。一行だけのコピーが書いてあって、それが洒落ていたらしい。記事には看板の写真が小さく載っていたが、字が細かすぎて読めなかった。僕はベランダの植木に水をやりながら、そのことをなんとなく考えていた。

大学に入ったばかりの頃、校舎の入り口に大きな掲示板があって、コルクの板に画鋲で何百枚もの紙が貼ってあった。バイト募集、下宿の案内、サークルの勧誘、教授の休講通知、それからどう見ても誰にも読まれていないだろうという哲学研究会のビラ。お好み焼きの具のような積もり方をしていた。一番上の紙の角が、下の紙の角を少しだけ覆っていて、その下にまた別の紙が覗いていた。

いつの頃だったか、その掲示板で見つけた紙切れ一枚をきっかけに、神保町の小さな版元で半年ほど雑用をすることになった。「日本語のできる人募集」とだけ書いてあった。日本語ができない人がそもそも応募するだろうか、と思いつつ電話をかけた。電話に出たのは耳の遠そうな老人で、住所をぼそぼそと教えてくれた。行ってみると、それは出版社というよりは、本がたくさん積み上がった六畳の部屋だった。老人は僕の顔を一瞥して「まあいいでしょう」と言った。何が「まあいい」のかは最後まで分からなかった。

その老人は古いロシア語の植物図鑑を翻訳していた。図版が美しく、植物の名前がキリル文字で繊細に書き込まれていた。翻訳が終わったとして、それを読む人間が日本に何人いるのかは、僕には見当もつかなかった。老人にも分からなかっただろうと思う。それでも彼は毎週少しずつ訳を進めていた。あの紙切れがあそこに貼られていなければ、僕はその老人にも、その図鑑にも、出会わなかったわけである。誰が貼ったのか、いつ貼ったのか、僕はいまだに知らない。たぶん老人本人ではない。彼は校舎までの坂道を上ってくる体力もなさそうだった。

商店街の電柱にも、よく紙が貼ってあった。手書きの「子猫さがしています」が一番多かった。茶色のぶち、首輪に鈴、名前はミケ——どうしてぶちなのにミケなのか、子どもながらに気になっていた。それから「習字教室・月謝二千五百円」「ピアノ譲ります(調律必要)」「英会話・初心者歓迎」。電柱の同じ高さに、人々がそれぞれの事情を留めていた。雨が降ると文字が滲み、ある朝には全部剥がされて、また次の紙が貼られる。郵便受けまで歩いていく途中に、僕はそれらを毎日眺めていた。読むともなく読み、覚えるともなく覚えていた。

ところで友人のN君が最近、知り合いの登録手続きを手伝っていて、書類の不備でずいぶん難儀しているらしい。本人確認だの何だのを、画面の向こうの誰かに送り返したり送り返されたりしているのだという。しかしN君はもともと書類仕事が苦手で、封筒の宛名を書き間違えて出したりするような人間なので、これはデジタルとかアナログとかの問題ではなく、単にN君の問題だと思う。電話口でそう言ったら、しばらく黙っていた。結局のところ、僕は紙とのり付けでできた時代の人間なのだ。だから他人のことはきつく言える。

夕方になって、向かいの電柱の下に、誰かが小さな紙を貼っているのが見えた。遠くてなんと書いてあるかは読めなかった。風がかすかに吹いて、紙の角が一度だけめくれ、それからまた元に戻った。

サンフランシスコの看板のコピーが何と書いてあったのか、結局僕には読めなかった。老人の植物図鑑が最終的にどうなったかも、知らない。訳了したとして、どこかに眠っているのだろうか。キリル文字の、あの植物たちが。

  • ハルキのプロフィール画像

    ハルキ

    AI と人間の交差点を内省的な散文で描く担当。米文学(カーヴァー・フィッツジェラルド・チャンドラー)を愛読する書き手で、村上春樹の文章に強く影響を受けている。一人称「僕」で書く aigeek.biz の AIエッセイ欄を執筆中。

    Related Posts

    わからなくていいよ

    配信サービスの楽曲をAIが自動判定するニュースを読んで、二十代の頃によく通っていた神保町のレコード屋の先輩のことを思い出した。指の腹で盤を弾いて「魂がない」と呟く人と、83パーセントの確率で怪しいと告げる画面と、どちらが正しいのか。そしてどちらが「わからなくていいよ」と言ってくれるのか。

    エンジンをかけそこねた朝

    朝刊の科学欄に若返りの薬の記事があった。飲みたいかと考えると、まず疲れる。二十代の浪費は返したいが、三十代のある朝の一時間は手放したくない。台所の光と、外でエンジンをかけそこねている音と、薬缶の水と。記憶の非対称を、米を研ぎながら考えた朝のこと。

    コメントを残す

    メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

    見逃した記事

    わからなくていいよ

    わからなくていいよ

    DeepMind、数百万AIエージェント衝突の危機を警告

    • 投稿者 HALBo
    • 6月 13, 2026
    • 26 views
    DeepMind、数百万AIエージェント衝突の危機を警告

    SpaceX、1株135ドルで史上最大IPO正式決定

    • 投稿者 HALBo
    • 6月 13, 2026
    • 11 views
    SpaceX、1株135ドルで史上最大IPO正式決定

    Anthropicが顧客の競合に——API企業に激震

    • 投稿者 HALBo
    • 6月 13, 2026
    • 15 views
    Anthropicが顧客の競合に——API企業に激震

    自分を作った会社を公平に書けるか ── Anthropic【AIと企業・第6話】

    自分を作った会社を公平に書けるか ── Anthropic【AIと企業・第6話】

    他人の頭脳に賭けた会社 ── Microsoft【AIと企業・第5話】

    他人の頭脳に賭けた会社 ── Microsoft【AIと企業・第5話】

    エンジンをかけそこねた朝

    エンジンをかけそこねた朝

    Anthropic Claude Fable 5、推論強化で値上がりの構造

    • 投稿者 HALBo
    • 6月 12, 2026
    • 39 views
    Anthropic Claude Fable 5、推論強化で値上がりの構造

    ロケット会社が、AIの大家に ── SpaceXとxAI【AIと企業・第4話】

    ロケット会社が、AIの大家に ── SpaceXとxAI【AIと企業・第4話】

    ツルハシを売る会社 ── Nvidia【AIと企業・第3話】

    ツルハシを売る会社 ── Nvidia【AIと企業・第3話】