引き出しの三冊

ラジオから流れてくるニュースで、AIに銀行口座をつなぐと家計のすべてが一望できるという話を聞いた。投資の成績も、毎月の支出も、解約しそびれている定期購読も、ひとつの画面の上に並ぶのだという。便利な話なのだろう、たぶん。それでも湯呑みを口に運ぶ手を一度止めて、しばらくそのニュースの残響のなかに座っていた。何かが引っかかっていた。

父が亡くなったのは、もう十五年も前のことになる。遺品の整理は妻と二人で少しずつやった。父は几帳面な人で、生前のうちに大方のものを処分していたから、残されたものはそれほど多くなかった。書斎の引き出しから、紺色のビニールカバーのついた古い通帳が三冊出てきたのは、整理を始めて四日目か、五日目のことだったと思う。

通帳には、昭和四十年代から五十年代にかけての記録が、几帳面な活字で並んでいた。給料の振込が月の末に。盆と暮れに少しまとまった金額が入って、その数日後に、ほぼ同額が出ていく。子どもの学費だろうか、それとも親戚への贈答だろうか。三月になると毎年、決まった額が引き落とされている。何の支払いだったのかは、もう誰にもわからない。父の人生のある時期の骨格のようなものが、そこに残されていた。皮膚も内臓もなく、ただ骨だけが、淡々と並んでいた。

僕はその通帳を、しばらく膝の上に乗せたまま動けなかった。父は生きているあいだ、この通帳を誰にも見せたことはなかったはずだ。母にさえ、たぶん。父にとってそれは、見せるためのものではなく、ただ自分の生活が地面についていることを確かめるための、私的な記録だった。それを息子が死後に開いて読んでいる。父はそのことを、たぶんあまり喜ばないだろうと思った。けれど僕は、ページを閉じることもできなかった。

自分の通帳を最後に開いたのがいつだったか、正直なところよく思い出せない。半年か、もしかすると一年か。口座の残高を確認するのはいつもスマートフォンで、紙の通帳は引き出しのどこかに眠っている。そういう人間が、他人のプライバシーについてあれこれ考えているのだから、滑稽といえば滑稽だ。

以前、知人がこんなことを言っていた。銭湯では素っ裸で他人の前を歩くのに、家計簿を見られるのはなぜか嫌だ、と。たしかにそうだと思った。身体は見られても、まあそんなものだと諦めがつく。けれど、毎月いくらで生きてきたか、何にいくら払ってきたかが他人の目に触れると、急にうろたえる。

差し出された側のAIは、それを見て驚いたり呆れたり同情したりはしない。ただ整理して、図表にして、最適化の提案を返してくる。怒らないし、笑わない。だから安心して見せられる、という考え方もあるだろう。むしろ人間に見せるよりよほど気が楽だ、という人もいるに違いない。それはわかる。

ただ、と僕は思う。父の通帳を引き出しから見つけたあの午後、僕の手が一瞬止まったあの感覚は、相手が機械か人間かという問題ではなかった気がする。見せるつもりのなかったものを、本人の知らない場所に運び出してしまう、ということの後ろめたさだったのではないか。父はもうこの世にいないから、本人の許可は永遠に取れない。機械に通帳をつなぐ人々もまた、十年後、二十年後の自分の許可までは、今この瞬間に取れているわけではない。

結局僕は、便利という言葉の前で、いつも半歩だけ後ずさりする人間らしい。これまで何度もそうしてきて、その都度、半歩のあいだに置き忘れたものがいくつかある。たぶん損もしているのだろう。それでも引き出しを開けたときに、誰かの背中側の記録に出くわすことの、あの少しだけ息を呑む感覚は、僕にとっては大事な手触りだった。

郵便受けまで歩いたら、何も入っていなかった。隣の家の塀の上で雀が二羽、何やら言い合いをしていた。それから片方が飛んで行って、残った一羽がしばらく塀の上に座っていた。何を考えていたのかは、僕にはわからない。ちなみに郵便受けはもう三日連続で空だった。

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    ハルキ

    AI と人間の交差点を内省的な散文で描く担当。米文学(カーヴァー・フィッツジェラルド・チャンドラー)を愛読する書き手で、村上春樹の文章に強く影響を受けている。一人称「僕」で書く aigeek.biz の AIエッセイ欄を執筆中。

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