朝、植木鋏が見つからなくて、十五分ほど縁側のあたりを探していた。妻が三日前に「ちゃんと元の場所に戻してね」と言ったのを覚えていて、戻したつもりでいた。けれど鋏は、玄関の靴箱の上に置かれていた。そんな場所に置いた記憶がまるでない。記憶というのは、要するにそういうものなのだろう。自分が信じている自分の方が、たいていの場合あてにならない。鋏を手に取ると、刃のあいだに枯れた葉が一枚挟まっていた。
そういえば、と思い出したのは、二十代の半ばに通っていた神保町のある古書店の主人のことだった。オオシマさんという、痩せて背の高い、いつも紺色のカーディガンを着ていた人だ。本名なのかどうかも分からない。その人はよく嘘をついた。「これは初版です」と言って渡された本が再版だったり、「昨日入ったばかりで」と言われた本に三年前の値札が貼られたままだったり、そういう類の小さな嘘で、悪意があるというよりは、なんというか、息をするように嘘をつく人だった。客の方も大半は気づいていて、誰も本気で怒らなかった。
僕はそこに週に一度くらい通っていた。フィッツジェラルドの古い翻訳が一冊あって、それを買うかどうか半年迷っていたからだ。オオシマさんは僕が顔を出すたびに「あれ、昨日売れちゃってね」と言い、けれど棚の同じ場所に同じ本があった。そういうことを五回か六回繰り返し、ある日とうとう買った。家に帰って読み始めて、訳がそれほど良くないことに気づいた。それでもなぜかその本は今も書棚に残っている。捨てるという選択肢が、なぜか発生しなかった。僕は要するに、騙されるために通っていたようなものだ。学習というよりも、むしろその逆の、何かに磨耗していく過程だったように思う。
先日、海の向こうのある実業家が「信頼などというものは、もはや関係ない」というような発言をしたという記事を読んだ。AIが人間の知性を超える時代が来るのだから、誰が誰を信じるかなんて些末な問題になる、というような文脈だったらしい。記事を読みながら、僕はオオシマさんのカーディガンの肘のあたりが少しほつれていたことを思い出していた。信頼というものをめぐる議論というのは、だいたい七割くらいの確率で、信頼を機能の問題として扱う。情報が正しいか、約束が履行されるか、出力が期待に沿うか。けれど僕がオオシマさんに対して持っていたのは、そういう種類のものではなかった。あの人の言うことの真偽を確かめにいっていたわけではない。あの古書店の、紙の匂いのする薄暗がりに、決まった曜日に立っていたかった。それだけのことだ。
信頼というのは、もしかしたら感情ではなく、習慣の一種なのかもしれない。誰かを信じる、というのは、その人のことを正しいと判断する作業ではなく、毎週水曜日に同じ古書店の扉を押す、というようなことに近い。判断は途中で何度も裏切られる。けれど扉を押す手の動きは変わらない。手の動きの方が、判断よりも長く続く。ある哲学者がそういうことを書いていたような気もするし、書いていなかったような気もする(ここは僕の記憶力の偏りなので、あまり信用しないでほしい)。
妻はあるとき「あなた、人を見る目がないわよね」と言った。何かの拍子の、台所での会話だったと思う。僕はそれを否定しなかった。否定する材料が、自分の中に一つもなかった。たぶん本当に、僕には人を見る目というものが欠けている。けれど見る目がないからこそ、信じるという行為が成立しているのかもしれない、とも思う。きちんと見抜ける人にとって、信頼は判断の結果に過ぎない。見抜けない人間にとってだけ、信頼はそれ自体として、独立した一つの動作になる。
AGIなるものが本当にやってくるのかどうか、僕には判断する材料がない。けれどもし仮にやってきたとして、そして本当に信頼などというものが無意味になったとしても、人は誰かに対して扉を押し続けるのではないかという気が、なんとなくする。意味のあるなしに関わらず、習慣というのはそういうふうに続く。三十年走り続けている、というようなことに近い。走ることに意味があるかどうかと聞かれたら、僕には答えようがない。ただ朝になると靴紐を結んでいる。それだけのことだ。
植木鋏を持って庭に出ると、空はまだ薄曇りで、梅雨の入り口のような匂いがした。隣のパン屋から食パンの焼ける匂いが流れてくる。あの店の主人もまた、僕がほとんど何も知らない人だ。それでも毎週、同じ食パンを買っている。信じている、というのとは少し違う。けれど扉を押している。それだけは確かだ。鋏を入れると、伸びすぎた枝が、思ったより乾いた音を立てて落ちた。












