名前を確かめるだけの用事に、電話を三日迷った。
N君のパソコンの検索窓には、あの一行がまだ残ったままだった。——シュウヘイ、今日は…… カーソルは律儀に点滅を続けていて、続きを打つ人を待っているようにも、もう誰も打たないことを知っているようにも見えた。「消していいんですか、これ」とN君が聞くたび、僕は「まだ」と答えるだけで、それ以上の理由を言えずにいた。

読まない、というのがこの事務所のやり方だ。けれど、名前を尋ねることは、読むことに当たるのだろうか。所長に相談すると、湯呑みの茶を一口すすってから、「あなたが決めることです」とだけ言った。決めることに慣れていない人間に限って、そう言われる。まるで、自転車に乗れない子供の後ろの荷台を、いつのまにか手放されているような気分だった。
四日目の朝、僕は受話器を取った。三回目の呼び出し音で、佐伯さんが出た。
「シュウヘイという方について、伺ってもいいですか」と僕は言った。名前だけです、内容には触れません、と付け加えるのを忘れなかった。
電話の向こうで、少しの間があった。「事務所まで伺います」と佐伯さんは言った。声の速度は変わらないのに、言葉の置き方がいつもより慎重だった。
その日の午後、佐伯さんはまた事務所に現れた。今日は鞄から、一冊の古いノートを取り出した。表紙が色褪せた、理科の実験ノートだった。「主人の授業ノートです。片づけていたら出てきて」。中を見せるでもなく、机の端にそっと置いただけだった。修一さんの字は、几帳面すぎて、少し窮屈そうに見えた。

「実は」と佐伯さんは切り出した。「あの名前を見てから、ずっと考えていました。うちには、シュウヘイなんて知り合いはいません。てっきり、知らない女の人の名前だと思っていました」
それから、笑おうとして、笑えなかった。「二十年も一緒にいて、最後の最後に、知らない名前が出てくるなんて。私、少しほっとしたんです。怒れる相手がいるなら、まだ楽だったから」
僕は何も言わずに続きを待った。所長も、湯呑みを両手で包んだまま動かなかった。佐伯さんも同じように湯呑みを包んでいて、二人の手の形がよく似ていることに、僕はどうでもいいことに気を取られながら気づいた。
「シュウヘイは、息子です」と佐伯さんは言った。「九つで、亡くなりました。二十年前」
事務所の空気から、ひとつ、余計な音が抜けたような気がした。窓の外を電車が通ったが、いつものガラスの音さえ、心なしか小さかった。
「主人は、私の前では、息子の名前を一度も口にしませんでした。位牌に手を合わせるときも、黙ってするだけの人でした。だから私、てっきり——お互い、そういう約束をしているんだと思っていたんです。声に出さない、という約束を」
佐伯さんは実験ノートの角を指でなぞりながら、少し間を置いた。「でも違ったんですね。声には出さなかっただけで、毎晩、書いていた。私の知らないところで、二十年間」

理科の教師だった修一さんが、息子の名を、生徒の前ではなく機械相手に二十年書き続けていたという事実は、悲しみというより、ひとつの律儀さのように僕には思えた。実験の手順をきちんと守る人が、悲しみの扱い方についてだけ、自分だけの手順を作っていたのかもしれない。理科室の白衣のポケットに、誰にも見せない小さな引き出しが縫いつけてあるような話だ。
「読みますか」と僕は聞いた。「まだ、最初の一行しか見ていません」
佐伯さんは、しばらく黙ってから、首を横に振った。「今日はいいです。名前が分かっただけで、十分です」
湯呑みを置いて帰り支度をする佐伯さんに、所長が「無理のないところで」とだけ声をかけた。無理のあるなしを、いったい誰が決めるのだろうと思いながら、僕はドアを開けた。
エレベーターの前で、佐伯さんが振り返った。「息子が生きていたら、今年で二十九です」

その言葉に、僕はうまく答えられなかった。かごが降りていくランプの数字を、二人でしばらく見ていた。
事務所に戻ると、机の上に実験ノートだけが残されていた。持ち帰るのを忘れたのか、置いていったのか、確かめる術はなかった。N君がそっと表紙を撫でて、「これも、預かり物ってことになるんですかね」と誰にともなく言った。答える義務があるのは僕のはずなのに、いちばん詳しいのはノートを書いた本人で、その本人はもういない。整理事務所というのは、つまるところ、答えられない人に代わって答えを探す商売なのかもしれなかった。
僕は自分の三日間の迷いを思い出した。名前ひとつ尋ねるのに三日かける人間が、二十年分の言葉の線引きをこの先やっていけるのかどうか、正直なところ自信はなかった。それでも、迷った三日のぶんだけ、佐伯さんの答えを急かさずに済んだのだとしたら、無駄ではなかったのかもしれない。
ポケットの中の父の鍵は、いつもと同じ重さでそこにあった。秘密なら、いつか誰かが見つけて終わる。けれど悲しみは、隠している本人にすら、しまう場所が分からないままなのかもしれない。
(第13話につづく)
朗読動画(フルバージョン)
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